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会報『星火方正』 |
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第9号(2009年12月発行) / 1冊 の 65記事 を表示しています。
- 日本政府の公墓支援決まる1
- 大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
- 1993年、私たちは「方正地区支援交流の会」を立ち上げ、10年余りに亘って、ささやかな経済援助活動を方正県に行ってきた。が、方正地区にいた「残留婦人」たちがほとんど日本に帰国した状況を受けて活動は収束していった。しかし、会を完全に解散するには忍び難い気持ちもあり、2005年6月、新たに「方正友好交流の会」を発足させた。 /// 続きは本誌ご参照
- 鳩山総理、ぜひ日本人公墓に参拝を!一方正日本人公墓は、国際的な友愛精神の象徴である4
- 大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
- 民主党の圧勝、自民党惨敗をもたらした衆議院選挙の時、中国訪問中の私は、連日、中国・中央テレビ局の好意的な民主党政権登場のニュースに接しておりました。日本の歴代総理が訪中する際、日中双方にとって縁のある場所を尋ねることが、いわば象徴的なこととして報道されてまいりました。鳩山総理が中国を訪問する際には、ぜひ、黒竜江省ハルピン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓を参拝していただきたいと思います。この公墓には、戦前の誤れる国策によって翻弄され、無念の涙をのんで亡くなった「残留婦人」や孤児たちの遺骨、約4500体が眠っております。 /// 続きは本誌ご参照
- 「友愛」に応え 首相訪問を5
- 五味洋治(東京新聞外報部)
転載元:東京新聞(2009年10月4日付朝刊)
- 中国東北部・黒竜江省に、敗戦の混乱で命を落とした旧満州開拓団員を弔う墓地がある。日本人のために造られた中国唯一の公営墓地だ。傷みが激しいため、地元の自治体が補修工事を進め、日本でも募金活動が始まるなど関心が高まっている。ちょうどアジア重視を掲げる民主党政権が誕生。関係者は鳩山由紀夫首相の同墓地参拝実現に向けた運動も始めている。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満州の邦人墓地支援ヘ一日本政府が管理費一部負担6
- 時事通信
転載元:北京時事(2009年10月13日付)
- 中国東北部(旧満州)に入植し、終戦の混乱で死亡した日本人を埋葬するため、中国側が黒竜江省方正県に建立した「日本人公簿墓」に対して、日本政府が維持管理費の一部を支援することが13日、分かった。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国建設の日本人慰霊墓―日本が管理費支援6
- 牧野田亨(読売新聞)
転載元:読売新聞(2009年10月10日付夕刊)
- 中国東北部(旧満州)の黒竜江省・方正県で、敗戦時に死亡した日本人入植者の慰霊のために建てられた「日本人公墓」(共同墓地)に、日本政府が初めて維持管理費を支援することになった。中国側が日本人のために建てた唯一の墓として知られ、これまでは方正県政府が全額負担してきた。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本人墓地に支援7
- 五味洋治(東京新聞外報部)
転載元:東京新聞(2009年10月11日付朝刊)
- 日本外務省は十日、中国東北部の黒竜江省方正県にある旧満州開拓団員を弔う墓地への支援を決め、同県政府に通知した。日本人のために造られた中国唯一の公営墓地とされるこの墓は、一九六三年に同県政府が建立、維持管理を続けてきたが傷みが激しいため、日本政府などに援助を申し出ていた。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正県の日本人公墓維持に日本政府が支援―加藤会長が強く働きかける7
- 日中友好協会
転載元:日中友好協会『日本と中国』(2009年10月25日)
- 中国・黒竜江省ハルビン市の方正県にある日本人入植者約5000人が眠る日本人公墓に対し、日本政府は初めて維持管理費を支援することを決めた。加藤紘一協会会長は、外務省に政府の支援を強く働きかけたという背景がある。加藤会長のその思いを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
- 開拓団墓地 首相参拝を7
- 小松陽子(神奈川県三浦市)
転載元:東京新聞(2009年10月31日付朝刊)
- 中国が黒竜江省に造った旧満州開拓団員墓地の補修を地元自治体が進め、日本政府も支援すると、4日付と11日付国際面にあった。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国にある日本人公墓、日本政府が資金援助8
- 蒋豊(環球時報日本特約記者)
転載元:環球時報(2009年10月12日付)※中文原文添付
- 中国黒龍江省方正県に「日本人公墓」がある。これは1963年、中国政府が許可し、日本の残留孤児と残留婦人のために建立されたものであり、世界で唯一の、戦争の被害を受けた国の政府が戦争を発動した国の被害者のために建立した公墓であり、中国人民の寛容さの証と見ることができるだろう。この公墓は、過去40年以上にわたり、日本政府によって忘れられ見落とされてきた。 /// 続きは本誌ご参照
- 維持管理費日本が支援―黒竜江省 満州開拓団の墓地10
- 信濃毎日新聞
転載元:信濃毎日新聞(2009年11月30日付)
- 中国黒竜江省方正県が、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した旧満州開拓団員の慰霊のために建てた共同墓地「日本人公墓」に、日本政府が維持管理費の支援を始めた。これまでは年間約20万元(約260万円)の管理費を全額負担しており、支援決定に地元からは歓迎の声が上がっている。 /// 続きは本誌ご参照
- 近現代史を知るきっかけに!(2009年5月30日・方正友好交流の会第5回総会での挨拶)11
- 羽田澄子(映画作家)
- ご紹介いただきました羽田でございます。このようの所でこのようなふうに皆様にご挨拶するとは思っておりませんでした。今回私が創りました『嗚呼 満蒙開拓団』という映画が岩波ホールで一般上映できるようになり、皆様に観ていただけるようになりましたことは本当に良かったと思っております。 /// 続きは本誌ご参照
- 想創:映画「嗚呼 満蒙開拓団」への道14
- 羽田澄子(記録映画作家)
転載元:毎日新聞(2009年9月1日、8日付夕刊)
- いま私は最新作「嗚呼 満蒙開拓団」の岩波ホールでの上映が無事に終わり、予想していなかった多くの方が見てくださる結果となって、ほっとしたところだが、改めて満州や満蒙開拓団について、関心を持っている人が非常に多いことを知って驚いたのである。私も満州には縁がある。 /// 続きは本誌ご参照
- あの戦争、あの時代15
- 谷野作太郎
- 今年も、八月十五日をまたぐ形で、あの戦争、あの時代をめぐって、いろいろな企画が組まれた。そのひとつは、岩波ホールにおける「嗚呼 満蒙開拓団」の上映である。方正友好交流の会の活動、方正所在の日本人公墓のことは、交流の会・事務局長の大類さんから直接うかがったり、その後、資料をいただいたりして承知していたが、映像を通してとはいえ、その日本人公墓を目のあたりにするのはこれがはじめてであり、何とも感無量だった。 /// 続きは本誌ご参照
- 「国家が国民を捨てる」国家イメージを脱却したい―『鳴呼 満蒙開拓団』を観て17
- 江田五月
- 参議院議長に就任して、時々、東京国立博物館の特別企画とか各美術館の特別展とか、面白い企画のご案内をいただく。これまでそういう時間の使い方が出来なかったが、ご案内をいただいて顔を出すと、もっともっとということになり、「花の生涯一梅蘭芳」とかハンセン病の「新・あつい壁」とか、映画を観ることも若干増えた。そんなことで目に止まり、「嗚呼 満蒙開拓団」を観た。どうせ空いているだろうと高をくくっていたら、切符売り場は何と長蛇の列。満席で、あわや見逃すところだった。 /// 続きは本誌ご参照
- 映画『嗚呼 満蒙開拓団』そして、その先18
- 千本健一郎
- かつて日本の国策で満州(現中国東北部)や内蒙古に入植した「満蒙開拓団」。二十七万にのぼる開拓民のうち七万人余が日本の敗戦前後、北満の地で命を落としたとされる。生きのびた人々は残留孤児、残留婦人としてそれぞれ中国人の養父母に引きとられ、あるいは現地中国人の妻となって歳月を重ねた。この記録映画のなかでそうした生存者が語る戦中戦後の体験は、一つひとつが身を切るように響く。 /// 続きは本誌ご参照
- 『嗚呼 満蒙開拓団』に寄せて22
- 滝永登
- この映画を見たのは、まったくの偶然といってよい。たまっていた仕事が一段落し、少しずる休みをしたい気分になって、職場のパソコンで映画館情報を検索し、この映画の存在を初めて知ったのだ。題名から判断してこれならよしと決め、早速休暇届を出し、神保町へ向かった。平日の昼間だったので楽に座れると予想し、上映開始直前にたどりついたのだが、館内はほぼ満席。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本にとっての「満州」とは24
- 寺本康俊
- 戦後世代の若い人たち、特に昭和後半期や平成生まれの人々にとっては、「満州」や日中戦争、太平洋戦争は、現実感がなく、歴史的な語句になっているのかもしれない。そうした言葉を実際に聞くこともある。しかし、よく考えてみれば、日本国内のみならず海外にも戦争の傷跡は至る所にあり、戦争の被害、影響を受けた人々の例を数えあげると枚挙にいとまがない。その意味では、いまだに「戦争は終わった」とは言えないのではないか。 /// 続きは本誌ご参照
- 遥かなる中国の大地で起きたことを、今、自ら眺望する創造力を求めて―『嗚呼 満蒙開拓団』を観て25
- 佐藤英之
- 長年、精神医療問題に関わっている。その日、7月8日(土曜日)は、午前中から神田一ツ橋の日本教育会館で、精神保健従事者懇談会(「精従懇」)が行われるため、私たちは精神保健・医療・福祉に関連する書籍販売の準備に忙殺されていた。 /// 続きは本誌ご参照
- 他人の人生を感じ取るということ一『嗚呼 満蒙開拓団』を観て28
- 吉家京子
- 中国残留日本人孤児の人達が、また肉親を探しにやってくる。どんなにか大変な人生を送ってきたことだろうと思いながらも、私は顔を背けたくなる。自分の頭と心の間に、なんとも嫌な距離感があるからだ。「ひとごと」として捕らえている自分が嫌になるのだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 山形県の小さな町で映画「嗚呼 満蒙開拓団」を上映して30
- 大場武男
- 8月、私たちは、映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子監督作品)を最上町で自主上映した。県境の宮城県大崎市や栗原市、県内からは遠く米沢市、山形市、最上地方の市町村からも足を運んでいただき、300人の方々に観ていただいた。中には満州の地図を持参し、入植した地と苦難の歴史を語ってくれた人もいた。 /// 続きは本誌ご参照
- “満蒙開拓団”我が心の想い一映画『鳴呼 満蒙開拓団』を観て32
- 吉川福太郎
- 悲しき事の多かりき…涙、涙、涙あるのみ 破れし国、その民無惨なり 戦争とはかかるものか原因は人にあり /// 続きは本誌ご参照
- 歴史を知って、忘れないでほしい―映画『満蒙開拓団』を見て33
- 畢楊
- この映画を見て、深い感動を覚えた。しかし、開拓民の悲劇に同情したのか、それとも、戦争が世界の人々にもたらした災害に心を痛めたのか、自分でもはっきり分からなかった。開拓団のことをよく知らなかった私はショックを受けた。 /// 続きは本誌ご参照
- 代役が見た映画祭の熱気―第12回ゆふいん映画祭に酔う35
- 奥村正雄
- 5月のある朝、突然、羽田さんから電話がかかってきた。「由布院の映画祭に、私の代わりに行ってもらえない?」5月29日から31日まで、大分県湯布院で開催される「第12回ゆふいん文化・記録映画祭」に、羽田さんに代わって出てくれというのである。理由は羽田さんが突然、心筋梗塞で入院したためだ。私は監督の立場でものは言えない。 /// 続きは本誌ご参照
- 土橋に腰かけたトーク―新潟でも超満員だった「嗚呼 満蒙開拓団」37
- 奥村正雄
- スクリーンの手前に狭くて低い小さなステージがある。映画が終わったあと10分の休憩を挟んで12時15分から、このステージに2脚の椅子を並べ、そこに羽田監督と地元の開拓団研究者・高橋健男さんが腰掛けてトークが始まる予定だった。ところが朝早くから映画館の前に並んだ観客が定員をはるかに越え、ステージの足元まで地べたに坐りこんでいた。そのため予定された椅子は運び込まれず、トークの2人はステージの前面に腰掛け、まるで足をぶらつかせながらのようなムードで話し始める、という形に変わった。この苦肉の演出がよかった。二人はまるで田舎の川にかかる一本橋に腰掛け、はだしの足首を川のせせらぎになぶらせているような錯覚を覚えた。 /// 続きは本誌ご参照
- 語り部としての責務39
- 藤原作弥
転載元:岩波ホール制作の映画プログラム「エキプ・ド・シネマ171」
- 私事で恐縮ながら、私も満洲からの引揚者である。昭和20年8月9日、ソ連戦車軍団がソ満国境を越えて侵攻してきた際、満蒙草原の僻地、興安総省興安街(現・中国内モンゴル自治区ウランホト)に在住していた私たち一家は、辛くも現地を脱出し、南満洲の国境の町・安東に逃れ着いた。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国で唯一存在する日本人公墓は何を語るのか40
- 大類善啓
転載元:岩波ホール制作の映画プログラム「エキプ・ド・シネマ171」
- 1945年8月9日、ソ連軍の怒涛のような侵攻と、それに続く日本の敗戦は、旧満州に国策として入り込んだ開拓民たちを、一挙に奈落の底に突き落とした。すでにその時点、開拓団にいたほとんどの青年・壮年男子は、軍に召集されていた。残っていたのは老人と女、そして子供たちだった。人々は争うように安全な地を求めて逃げ惑い、難民、流浪の民と化していった。ソ連と国境を接する、現在の黒竜江省の奥地に人り込んでいた人々は、ひとまず方正を目指した。 /// 続きは本誌ご参照
- 満州開拓団の悲劇伝えたい―羽田澄子監督が記録映画41
- 大久保真紀(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2009年6月2日付夕刊)
- 1931年の満州事変以降、国策で中国・東北地方(旧満州)に送り込まれた開拓団の悲劇を真正面からとらえた記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」が完成した。約27万人が送り込まれた開拓団は、ソ連軍の侵攻と敗戦の混乱で、約8万人が死亡、多くの中国残留日本人孤児らも生み出した。戦後60年余。ていねいに取材して歩いた映像だ。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国細見:怨念超えた日本人追悼―「嗚呼 満蒙開拓団」42
- 藤野彰(読売新聞編集委員)
転載元:読売新聞(2009年6月12日付朝刊)
- 「『満蒙開拓団』って何だか知っている?」最近、ある大学で日中関係について講義した折、学生に質問してみた。300人の大教室はしいんとしたまま。ぼかんとした学生たちの顔を眺めつつ、いささか脱力感を覚えた。 /// 続きは本誌ご参照
- 嗚呼 満蒙開拓団―日本人の「その後」たどる43
- 毎日新聞
転載元:毎日新聞(2009年6月12日付夕刊)
- 羽田澄子監督のドキュメンタリーは、観客の世界を変える。世に知られない事実を掘り出し、あるいは社会的事象に新たな視点を提供することによって。この新作では、第二次世界大戦中に中国大陸に送り込まれた日本人開拓団のその後をたどる。歴史を振り返るだけでなく、彼らの悲劇は今に通じると訴える。 /// 続きは本誌ご参照
- 記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』は問いかける―なぜ、この悲劇は起きたのか44
- 日中友好協会
転載元:日中友好協会『日本と中国』(2009年6月15日)
- 「行け満洲へ 拓け満洲を」「お国のため」という“美名”のもと、旧満洲、内蒙古に移民として送り込まれた「満蒙開拓団」は約27万人。そのうちの8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦による逃避行のなかで、帰国できずに亡くなった。羽田澄子監督が「つくらなければならなかった運命をもった映画」と語る『嗚呼 満蒙開拓団』が全国上映に先駆けて6月13日から東京・神保町の岩波ホールでロードショー公開される。 /// 続きは本誌ご参照
- 「嗚呼 満蒙開拓団」―国家の無責任の極み45
- 秦早穂子(評論家)
転載元:朝日新聞(2009年6月19日付夕刊)
- 中国・ハルビンから170キロの街方正は、かつて関東軍の補給基地であった。この地に日本人公墓が建立されたのは63年。開拓民の生き残りで中国人と再婚した松田ちえさんが、多くの日本人遺骨を発見したのが始まりだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 「嗚呼 満蒙開拓団」―27万人の悲劇 満州生まれ 羽田監督が証言つづる46
- 小田克也(東京新聞)
転載元:東京新聞(2009年6月23日付夕刊)
- 「嗚呼 満蒙開拓団」は、記録映画を手掛けてきた羽田澄子監督のドキュメンタリー。一九三一年の満州事変後、日本政府の国策で中国大睦の旧満州、内モンゴルに約二十七万人の開拓団員が入植させられたといわれるが、その悲劇を浮き彫りにする。 /// 続きは本誌ご参照
- 記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」―国家による「大量棄民」 現代的視点から問う47
- 大日方悦夫(現代史研究者)
転載元:しんぶん赤旗(2009年6月24日付)
- かつて日本が「満洲」と呼んだ中国東北地方。この地に刻まれた日本人開拓団の歴史。それは、戦後60年以上たった現在でも、いや現在だからこそ、もう一度問い直すべき問題である。映画「嗚呼 満蒙開拓団」は、「満洲移民とは何か」を現代的視点から問う意欲作である。 /// 続きは本誌ご参照
- 映画:羽田澄子監督―嗚呼 満蒙開拓団48
- 松田政男(映画評論家)
転載元:公明新聞(2009年6月19日付)
- 『薄墨の桜』や『痴呆性老人の世界』など代表作を想い浮かべると、記録映画監督の羽田澄子にはなにがしかスタティックなイメージが付きまとう。だがしかしいま、東京・神田神保町の岩波ホールで公開中の『嗚呼 満蒙開拓団』は、かつて「満州国」と呼ばれた中国東北部へ長駆撮影して、いわば知られざる昭和史の深部へ肉薄したダイナミックな記録だ。 /// 続きは本誌ご参照
- ザ・コラム ポリティカにっぽん:変えちゃいけないものもある―政権選択の夏48
- 早野透(本社コラムニスト)
転載元:朝日新聞(2009年7月30日付朝刊)
- また、戦争の記憶がよみがえる夏が来た。あわただしく1年をすごしていても、夏がくれば、戦争のことを思い出す。 /// 続きは本誌ご参照
- 映画時評:戦争の真実と善意の危うさ―「嗚呼 満蒙開拓団」「真夏のオリオン」49
- 山田和夫(映画評論家)
転載元:しんぶん赤旗(2009年7月1日付)
- 羽田澄子監督(1926~)は旧満州(中国東北部)に生まれ、48年に引き揚げてきた。戦後女性映画人の先駆者として、多くのすぐれた記録映画を制作したが、彼女は旧満州の内陸部で起きていたことをほとんど知らなかった。2002年、中国残留孤児の国家賠償請求訴訟がはじまり、「満蒙開拓団」の悲劇に大きな関心をもち、長編記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」をつくった。 /// 続きは本誌ご参照
- リレーエッセイ シネマにくびたけ:当事者が語る悲劇の史実―嗚呼 満蒙開拓団50
- 栗山洋四(シネフォーラムつちうら)
転載元:常陽新聞(2009年7月12日付)
- 昭和初頭、世界恐慌に加えて大飢饉が農民たちを襲った。山間の猫の額のような田畑で貧困にあえいでいた小作農の心をくすぐったのは「大陸に渡って広大な土地持ちになろう」との日本帝国政府の呼びかけだった。 /// 続きは本誌ご参照
- 嗚呼 満蒙開拓団51
- 川口恵子・向後友恵・田島正夫
転載元:岩波ホール制作「友Iwanami Hall 秋No.363」
- 私たちの生は、日々、歴史という大きな物語の渦に巻き込まれてゆく。渦中の只中にある人間は声を上げる術もなく、目の前の過酷な現実と闘うことに追われ、生を費やさざるを得ない。そうして無数の人々の生の現実が、歳月と共に忘れさられ、国家の歴史の背後に消える。しかし、ひとたび埋もれた民衆史を掘り起こそうとする時、文献以上に力強く「真実」を語るのは、歴史を生きた人々の「声」にほかならない。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国は私を忘れていなかった―元残留孤児・池田さん 60年式典出席54
- 西村大輔(朝日新聞)
転載元:朝日新聞(2009年10月2日付)
- 中国・北京で1日に開かれた建国60 周年の式典に、中国残留孤児国家賠償請求訴訟の原告団を率いた池田澄江さん(65)が招かれた。希望を胸に帰国した祖国日本で冷遇された池田さんは、華やかなパレードを見て涙を落とした。「中国は私を忘れていなかった」 /// 続きは本誌ご参照
- 歴史証言の鮮度と賞味期限一『嗚呼 満蒙開拓団』の場合55
- 奥村正雄
- 昨年10月19日、東京・青山のウィメンズ・プラザで開かれた第21回東京国際女性映画祭でこの映画『嗚呼 満蒙開拓団』(羽田澄子監督)が初めて公開された。長蛇の列ができ、入場できない人も大勢出た。当日、その初公開の直前まで、会場では、まもなく観客を迎える暗い客席に陣取って、スタッフはスクリーンに映し出されるシーンを、固唾を呑んで見守っていた。最後のチェックだった。この時、私は最後に映し出された一行の、無言の白抜きの文字を見て驚いた。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国東北地方について―旧「満州国」に暮らして63
- 金倉美佐恵
- 私が方正友好交流の会を知ったのは、当会報誌第7号に紹介されていた「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の事前調査で方正県を訪れたことがきっかけであった。06年秋~09年春にかけて、私は在藩陽日本国総領事館において「草の根・人間の安全保障無償資金協力」外部委嘱員として案件監理等に従事しており、総領事館より方正県におけるプロジェクトの事前調査も委託され、方正県へ行く機会をいただいたのである。援助に対する考え方において、当会報誌を手に取られた方々とは異なる部分もあるかと思うが、最後までお読みいただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
- 「満蒙開拓平和記念館」の建設実現を目指して―満蒙開拓に係わるいくつかの想い66
- 寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会事務局長)
- 現在、長野県南部の下伊那郡阿智村にて建設計画が進められている「満蒙開拓平和記念館」構想について、まずもって方正友好交流の会会員の皆様並びに関係各位等始め全国各地からお寄せ頂いているご寄付及び様々なご支援等に対し、この誌上をお借りして厚く御礼を申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
- 特集「歴史検証の旅」に寄せて74
- 大類善啓
- 昨年、「友好の原点を歩く旅」を企画したところ好評だった。北京に3年ほど駐在経験ある経済団体にいた人も、「あまり東北には縁がない。ましてハルピン郊外の方正県には行ったことがない。ぜひ方正訪問の旅を」という要望があって企画した旅だった。 /// 続きは本誌ご参照
- 感傷旅行の記75
- 師岡武男
- 旧満州への旅は、私にとっては「感傷旅行」の色合いを帯びざるを得ないだろうと、はじめから意識していた。それは私の年齢(83歳)と、旧満州との関わりからだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 物見遊山でない旅78
- 矢島敬二
- 中学3年で敗戦の日をソウルで迎えたわたしは小学校、中学校の修学旅行に無縁であった。そして中学で行われた団体の移動では「お前たちこれは物見遊山ではないぞ」という軍事教官の言莱をかならず耳にした。後期高齢者になってからの地域の友人とのバス旅行はすべて物見遊山で、日程はきついが確かに気楽である。こういう旅と比べると今回の「歴史検証の旅」はまさに「物見遊山でない」旅であった。日程も検証内容も厳しかった。 /// 続きは本誌ご参照
- 満州開拓団と居留日本人の悲劇の跡を巡る旅81
- 酒井旭
- 今回の旅行は、戦前、小学校入学前から中学2年生まで住んでいた佳木斯の街や、昭和20年に3か月ほど勤労奉仕に行っていた弥栄村開拓団の跡地を訪ねるというので参加しましたが、内容の濃い、考えさせられることの多い“学びの旅”でした。 /// 続きは本誌ご参照
- 私には亡き母とこの地で亡くなられた満洲開拓団員への鎮魂の旅でした85
- 宮下春男
- 旅行募集のテーマに躊躇しながらも、示されたルートと専用車で各地を巡るとの案内を見て、またどんな方が参加されるのか見当も付きませんでしたが、私自身はこれらの地で亡くなられた多くの満洲開拓団員などの方々への鎮魂の旅と決め応募、参加しました。 /// 続きは本誌ご参照
- ハルビン郊外の深い爪痕92
- 高村壽一
- シベリア鉄道は遠くはるかモスクワに通じている。その路線の中国最北の大都会が黒竜江省の省都である哈爾浜(ハルビン)である。人口九百七十五万人。夏の温度は三十度、冬は逆にマイナス三十度になる。しかし、人々の顔は経済成長のせいか明るい。帝政ロシア時代の欧州風建築を観て歩くのも一興だが、観光客が集まるのは、冬の一大イベント氷雪祭りだ。中央大街(キタイスカヤ)は一年中遅くまで人々でにぎわう。ビール消費量はミュンヘン、モスクワに次いでハルビンが世界第三位という。クルマのラッシュ緩和のために目下地下鉄を建設中で、活気に溢れている。 /// 続きは本誌ご参照
- 旅後雑感93
- 服部健治
- 正直言って、今回の旅行団に参加するにあたっては当初躊躇があった。なぜなら仰々しくも「北東アジアの未来を展望する」と銘打っており、そんな大それた気負いは微塵もなかったからだ。ただ、以前から関心があり、調査もしていた中国と周辺諸国との辺境貿易、その一例である北朝鮮国境と接する延吉朝鮮族自治区(18年前に訪間したことがある)と中露国境の綏芬河の現場に行けることにまず興味がそそられた。 /// 続きは本誌ご参照
- ソ連軍の満州侵攻は8月7日!?96
- 高橋健男
- 「近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」の第4日目、旧東満の綏芬河中ロ国境と旧関東軍の東寧地下要塞を訪れた。国境警備の建物、陸路国境を越えるトラックやバスの諸検査、多くの兵士の巡回(監視)、国境ゲート、そしてはるか遠くの頂まで続く国境線を挟む樹木伐採の3、40メートル幅の緩衝地帯の帯は、そのいずれもが私の日常性を越えるものであった。はるか遠くの頂に小さく、中国側監視塔が見える。 /// 続きは本誌ご参照
- 今、生かされている者の使命は?―「近現代の歴史検証と北東アジアの末来を展望する旅」参加して100
- 打田茉莉
- 昨夏のヨルダン行きは、何年か前からの日本聖公会東京教区と中東聖公会エルサレム教区との交流の結果、アンマンにイスラエルはじめ周辺国からパレスチナ人クリスチャンが集ってイスラエル占領下の彼女たちの現状を知るというもので、以前から予定していたことだった。 /// 続きは本誌ご参照
- はなしの歳時記:水稲王の碑102
- 高村壽一
転載元:全国信用金庫協会『信用金庫』(2009年10月号)
- 稲の原産地は東インド、東南アジアだ。日本には縄文時代末期に中国から伝播したことには異論がない。ただ、その経路については中国南部→琉球諸島→南九州、中国人陸→朝鮮半島→北九州などの説があり、近年の研究では、長江河口→対馬海流→北九州ルートも有力だという。1世紀初めには近畿地方に稲田があり、その後北上したが、北海道で稲作が本格化するのは明治時代に人ってからである。 /// 続きは本誌ご参照
- はなしの歳時記:ハルビン郊外の深い爪痕103
- 高村壽一
転載元:全国信用金庫協会『信用金庫』(2009年11月号)
- シベリア鉄道は遠くはるかモスクワに通じている。その路線の中国最北の大都会が、黒竜江省の省都である哈爾浜である。人口975万人。夏の温度は30度、冬は逆にマイナス30度になる。しかし、人々の顔は経済成長のせいか明るい。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国と私(2009年5月30日・方正友好交流の会・第5回総会での記念講演)104
- 武吉次朗
- 《解説》武吉次朗さんは日本の敗戦後、中国に留用され1958年に帰国。その後は日中交流の最前線で活躍され、毛沢東や周恩来に謁見された体験を持つ方である。今まで断片的に周恩来に関する体験談をお聞きしたことはあるが、敗戦前後の貴重な体験は聞いていない。そこでそのあたりをじっくりとお聞きしたいと思い総会で講演をお願いした。本稿はその時の講演記録である。(大類) /// 続きは本誌ご参照
- 残留孤児 不信解く旅―日本での苦境に理解進む115
- 大久保真紀(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2009年11月25日付朝刊)
- 全国に暮らす中国残留日本人孤児45人が「中国人民に養育の恩を感謝する中国訪問団」を組織し、11月初めに訪中した。命を救い、育ててもらった感謝の気持ちを伝えるためのこうした旅を、孤児らが自ら企画するのは初めて。誤解に基づく中傷も受けてきた孤児たちは悲願を果たし、「これから本当の日中友好に役立ちたい」と誓い合った。 /// 続きは本誌ご参照
- この人:裁判闘争の記録を出版した中国残留孤児の“厳父” 菅原幸助さん115
- 白井慎一
転載元:東京新聞(2009年8月20日付朝刊)
- 中国残紹孤児には「菅原」姓が少なくない。しかし、血縁関係はない。「本の戸籟を作ったとき『先生の名字を下さい』と言れ、いいよって言ったら、ドンドン増えちゃって」 /// 続きは本誌ご参照
- 大きな愛情で日本人孤児を育てた中国に残る養父母へ 感謝の義援金募集 趣意書116
- 霜下隆俊(財団法人兵庫県海外同友会理事長)
- (財)兵庫県海外同友会では日本人孤児への日本語教室の開催や就職の世話、生活相談コーナーの開設など、長年に渡って支援活動を続けてきましたが、戦後64年がたち、ここ数年ば帰国する孤児たちはわずかとなっております。 /// 続きは本誌ご参照
- もうひとつの“抱台山”117
- 高橋健男
- 方正であれ新京、奉天、ハルビン、チチハルなどの都市部であれ、そこに避難集結した開拓団避難民を主とした難民は、行き着いたそれぞれの地で自分たちの力で住むところを探し、食糧を確保し、収容所生活を始めることができたわけではない。彼らはおしなべて疲労困態の上に身一つ、無ー物に近かった。 /// 続きは本誌ご参照
- 大阪にもある「満蒙開拓団」碑121
- 中務武志
- この夏公開された映画『鳴呼 満蒙開拓団』は、各地で大きな反響を呼びました。開拓団で辛酸をなめた人たちに取材した、羽田澄子監督による記録映画で、2008年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位などを得ています。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正県設立100周年記念祝賀行事に参加して122
- 大類善啓
- 巻頭の「政府の公募支援」でも触れたが、今年は方正県が設立されてから100周年という記念すべき年である。昨夏方正を訪れた時、外事僑務弁公室の李宝元さんや張紅麗さんから、来年は方正県が設立してからちょうど100年経つので記念フォーラムをやる。招聘状を送るからぜひ出席してほしいとのことだった。 /// 続きは本誌ご参照
- 忘れ難き歳月125
- 福地正博
- 《解説》福地正博(ふくち・まさひろ、中国名:王久徳)さんは、いわゆる「残留孤児」である。1939年、青森県生まれ、1942年4歳の時、両親と共に開拓団として旧満州へ渡った。1945年7月、父が現地召集され、母、2人の弟、妹と暮らすも、8月の日本の敗戦で逃げる途中に弟、妹が病死、母も伝染病で亡くした。1946年3月、福地さんは病気で倒れているところを中国人夫婦に引き取られ成長した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
- 日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第5回)135
- 大類善啓
- 《前回までの粗筋》多忙と「遊び心」?が重なり、第4回(会報6号)で本稿が止まっていたところ、読者から、その後の続きを読みたいという声が入った。ということで、中国が改革開放路線を取って軌道に乗る段階まで書いていきたいと思う。新たな読者のために前回までの粗筋を紹介しておく。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い142
- 方正友好交流の会
- 1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
- 書籍案内143
- 方正友好交流の会
- 『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を間い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』、『満州開拓民悲史一碑が、土塊が、語りかける(高橋健男著)』、『霜島フクさんの満州―満蒙開拓団、終戦、その後(大和清一著)【日本中国友好新聞(2009年10月25日付)より転載】』、『黒龍江への旅(高野悦子著)【日本と中国(2009年9月5日付)より転載】』 /// 続きは本誌ご参照
- 報告/編集後記145
- 大類善啓
- 映画『鳴呼満蒙開拓団』は今も全国で上映活動が続いている。この映画によって方正日本人公墓の存在もかなり知れ渡ってきた。これもほんとうに羽田澄子さんのお陰である。羽田さん、そしてプロデューサーの工藤充さんには謹んで御礼を申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
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