方正友好交流の会
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星火方正
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第6号(2008年5月発行) / 1冊27記事 を表示しています。

  第6号(2008年5月発行) 第6号(2008年5月発行)表紙

「方正友好交流の会」について考える1
大類善啓
前号5号は今までの中では一番厚い会報になった。南野知恵子・元法相の方正訪問記事や石原政子さんの手記、井上征男さんの小説など、長い文章を掲載したことも要因だった。この調子で充実した会報が毎号続けられるならいいが、そうもいかないだろう。改めて会員の方はもとより、支援していただいている方々からの原稿を今後も期待したい。さてその前号に関して、ある人から私の方に、方正公墓の存在はかなり知られている。中国の温情に感謝するだけでなく、もっと藤原長作さんの偉業などを紹介すべきだという意見をいただいた。そこでこの機会に、「方正友好交流の会」について、私の個人的な見解ではあるが、先の意見に答えたいと思う。皆さんのご意見もいただければ幸いである。 /// 続きは本誌ご参照
方正テレビ局取材に来日5
方正友好交流の会
去る3月4日(火)、方正県人民政府外事僑務弁公室・主任の王偉新さん一行が来日した。今回の訪日目的は、方正県と日本との交流を、ビデオ映像に撮っておこうという趣旨だったようである。一行のメンバーは、方正県常務委員で宣伝部長の王恩庫さん、方正県放送テレビ局長の李春峰さん、それに方正テレビ局女性ディレクターの張暁丹さん、それに通訳の趙会君さんである。 /// 続きは本誌ご参照
日本の大使が初めて方正日本人公墓を参拝7
方正友好交流の会
表紙の写真で紹介したが、中国駐在の宮本雄二大使が方正を訪問、日本人公墓に参拝した。このニュースを私たちが知ったのは、1月10日の訪問後、中国の仲間からだった。当初は本当だろうかとの疑念もあり、直接方正県政府の外事弁公室に確認したところ、事実だということがわかった。関係者からも、大使訪間を記事にした黒竜江日報が送られてきた。日本では、このニュースはどのマス媒体も報じなかったようだ。以下、黒竜江日報の記事を紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
衛藤瀋吉先生を偲ぶ9
大類善啓
衛藤先生の名前が眼に人った!「方正友好交流の会」の第2回総会に、旧知の外交界の中国通に講演をお願いすべくお電話したら、すでに約束が入った後だった。たぶん大丈夫だろうと楽観していたので慌てた。仲間に相談する時間的な余裕もなく、慌てて手元の「文春手帳」を取り出し、巻末の寄稿家リストの頁を繰っていった。方正日本人公墓に理解ある方を探すには、当然中国に関心がある人、とりわけ旧満洲にいたことがある人ならいいという思いで名前を見ていくと、衛藤瀋吉先生にぶつかった。正直にいえば、衛藤先生について知っていることといえば、近現代中国の研究家であること、瀋陽生まれであること。それに亜細亜大学の学長になられてすぐ、一芸一能に秀でていれば入学できるという、偏差値ではなく個性重視の大胆な入学試験を打ち出した人ぐらいの知識しかなかったが、すぐに電話をした。電話口に出られた先生は、幸いにもその日、予定は何もなく、快く「いいですよ」という返事をいただいた。 /// 続きは本誌ご参照
曠野に果てたちちはは11
衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)
『就友』と題する小さなパンフレットを庵谷磐さんから10年程前に頂いた。庵谷さんは私と同じ奉天ー中の先輩、引揚孤児のアフターケアや残留孤児の厚生に身を挺している義人である。『就友』は「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」という会の機関誌である。その表紙に短い詩が記してある。かつて別なところでも紹介したが、激しく胸を打ち、忘れられないので、ここでも紹介させて頂く。 /// 続きは本誌ご参照
方正行13
山村文子
中国を訪れる都度、私は感動と良い思い出を与えてもらう。中でも、1984年1月3日の方正行きは今も鮮明に心に残っている。方正に日本人公墓があると聞いたのは、その一、二年前。満洲と言っていた頃のことを考えると、信じられないような気持ちだった。この墓は、この辺りに残された日本婦人達が、山野に散らばる同胞の骨を集め供養しておられたのを、人民政府で墓地を整備し墓を造ってくださったと聞いた。お参りし、あわせて中国の方々に感謝したいと思っていた。が、当時はまだ方正に入るには許可が必要だった。 /// 続きは本誌ご参照
身も心もまる裸15
北澤博史
自分の国を守ることであるのなら国民の犠牲はつきものである。戦前の大人達は、国の行いの良し悪しは別として、みんなそういって行動していたようだ。私が五歳で満州へ連れて行かれた昭和十五年ごろは、戦争のため日本の経済は貧しかったという。戦争に勝って国をよくしよう、そのために、日本は満州を侵略し経済の立て直しをしようと思いついたらしい。 /// 続きは本誌ご参照
酷寒の風揺るがぬ友好17
石金楷
2008年1月9日、著名なカメラマン・孫国田さんがハルピン市方正県を訪れ、零下20度という厳寒の中、日本の残留孤児の養父母や日本人公墓などを取材した。今年53歳の孫国田さんは中国写真家協会の会員であり、大慶市写真家協会の副主席である。この6年来、彼は侵略日本軍の証拠となるものを苦労しながら探し出し、あの忘れることのできない歴史を掘り起こし、記録してきた。彼の足跡はいくつかの省や都市にわたり、記録した人物は東北抗日聯軍の戦士、労働者、虐殺事件の生存者、歴史の証人、慰安婦など200人あまりに及ぶ。 /// 続きは本誌ご参照
方正県日本人公墓の前に立って―前事不忘 後事之師18
小野寺武男
今年の正月、私たち「偽満州国平和を探る旅」と名づけた14名の岩手の旅行団は、方正県の「日本人公墓」を墓参してきました。そのことを「方正友好交流の会」の大類さんにメールで報告したところ、会の機関紙に投稿してほしいとの依頼を受けましたので、単なる経過報告程度にしかならないと思いますがご報告申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
新潟第7次清和開拓団勤労奉仕隊記録の発掘一殉難者への慰霊の心をこめて24
高橋健男
第7次清和開拓団は新潟県送出の開拓団で、旧東安省虎林県に入植した。「1938(昭和13)年2月、先遣隊入植。猛吹雪を冒して宿舎の建設、燃料収集に血の出るような苦心を続け、翌昭和14年、本隊の入植を見るに至る。団員はすべて新潟県人で戸数約200、人口約600、所有土地面積約4,300町歩」と、梅川勝衛団長(元中蒲原郡荻川村村長、新潟市、故人)が勤労奉仕隊に紹介していた。 /// 続きは本誌ご参照
満州建設勤奉仕隊に参加した記録について28
野田良雄
私は昭和16年、まだ17歳の時、文部省で募集した満州建設勤労奉仕隊に参加し、その年の5月下旬から8月末まで、東満・虎林の近くの第七次清和開拓団にお世話になっておりました。それからまもなく、12月に太平洋戦争が始まり、昭和20年8月には日本の敗戦で戦いは終わりました。その頃、大陸からの引き揚げ者で日本全土は大混乱でした。私宅でも、昭和21年8月頃から母方の叔父や、母の家族が帰りはじめ、住処も定まらず、食事も布団も着る物もなくて、母の苦労は大変なものでした。清和開拓団の人々も、てんでにお帰りになったようですが、その様子は私どもにはわかりませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
方正の『日本人公墓』と『撫順戦犯管理所』30
芹沢昇雄
私が方正の「日本人公募」のことを初めて知ったのは遅く、『東京新聞』が連載した2005年の「記憶・戦後60年・新聞記者が受け継ぐ戦争」シリーズの記事で、今もその記事を大事に保存しています。私はそれまで「撫順戦犯管理所」で人道的扱いを受けた戦犯達が、自らの力で鬼から人間に戻った「中国帰還者連絡会(中帰連)」の賛助会員でした。「日本人公墓」の話を知り、これは「撫順戦犯管理所」での戦犯への扱いや考えと全く同じであり、これは偶然ではなく、中国の「人道的・寛大措置」が本物である事を改めて確認した思いでした。 /// 続きは本誌ご参照
「非戦」の花、絵本に―元日本兵宅で半世紀咲く31
佐々木亮(朝日新聞)     転載元:朝日新聞西部本社版(2007年1月18日付夕刊)
「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」。そんな言葉とともに元日本兵が中国から種を託され、佐賀市で半世紀も夏ごとに花をつけているアサガオがある―。実話をもとにした絵本「赦しの花」が、戦争体験の聞き取りをしている福岡県の戦後世代の教師やイラストレーターたちの手でまとめられた。 /// 続きは本誌ご参照
時の肖像:海を越え、時を超えて咲く朝顔―8月の光と闇32
高橋郁男(朝日新聞論説顧問)     転載元:朝日新聞(2007年8月6日付朝刊)
庭先の、細い竹を組んだ小さな垣根に、いくつもの朝顔が咲いている。濃い藍色の花弁のそこここに滴が浮かび、九州の空を映している。佐賀市郊外の副島進さん宅を訪ねたのは、6月の下旬だった。91歳になる副島さんは脳梗塞で入院中だったが、この朝顔は、半世紀も前に中国から持ち帰った種の子孫だと聞いたからである。 /// 続きは本誌ご参照
原子爆弾に思う33
武吉次朗・訳     転載元:重慶『新華日報』時評(1945年8月9日付)
原子爆弾の発明と初めての使用は、全世界を震撼させた。科学の革命と戦争の革命が、同じ日に起きた。原爆のほんとうの性能について、われわれはまだ検討できるだけの十分な資料を持っていないが、今までに得たニュース報道によれば、その破壊力の猛烈さと殺傷性の巨大さは、疑いのない事実である。 /// 続きは本誌ご参照
「満洲移民の村」のけじめ―『満洲泰阜分村―七〇年の歴史と記憶』編纂にたずさわって35
猪股祐介
長野県下伊那郡泰阜村は2007年、満洲への分村移民を決めた1937年から70年目を迎えるにあたり、『満洲泰阜分村―七〇年の記憶と歴史』を刊行した。泰阜分村大八浪開拓団の記念誌は、1979年に『満州泰阜分村―後世に伝う血涙の記録』が刊行されたが、それから30年弱が経ち、長らく絶版の状態にあった。本書の刊行は、『血涙の記録』の復刻を願う声や、大八浪開拓団の体験者が少なくなった現況を憂える声に応えるものであった。私は『七〇年の記憶と歴史』編集委員の一人として、その企画・編集に深く関わった。そこで、刊行にまつわる喜びや苦労を交えながら、内容を紹介したい。 /// 続きは本誌ご参照
文化:中国に立つ「日本人公墓」に思う―時代を超え、両国友好の“象徴”に40
大類善啓     転載元:聖教新聞(2008年3月30日付)
日中両国の一部マスメディアの中には、事ある日ごとに嫌中感情や反日感情を煽ろうとする傾向がある。民族主義、ナショナリズムは、しばしば感情に訴えるため、非常に狭い視野に陥りがちだ。大事なことは、阿事も日中の関係者が理性的に話し合い、対処していくことであって、感情的に反応することではない。ましてや、政治問題化することではない。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 墓参へ―平和条約30年 6月満州訪問 県日中友好協41
徳島新聞     転載元:徳島新聞(2008年3月8日付)
徳島県日中友好協会(加藤高明会長)が六月下旬、日中平和条約締結三十年の記念事業として旧満州(中国束北部)を訪問する。黒龍江省ハルビン(哈爾浜)市郊外の方正県にある「方正地区日本人公墓」への墓参が主な目的。公墓は日本への引き揚げがかなわず、飢えや病気で亡くなった開拓民約五千人の遺骨が納められている。加藤会長は「墓は国交回復前に建てられた。友好の真意をかみしめて手を合わせたい」と話している。訪問団には友好協会員のほか、県内在住の引き揚げ者も参加する予定。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留「不忘の碑」―体験談に感銘 調布に建立42
出田阿生(東京新聞)     転載元:東京新聞(2008年4月9日付夕刊)
戦時中、国策として満州(中国東北部)に渡り、戦後も国の無策で大陸に取り残された残留婦人の言葉に感銘を受けた主婦が、私財を投じて石碑を建立した。東京都調布市にある「延浄寺」境内にたたずむ石碑に刻まれた文字は「不忘の碑」。十二日に記念のつどいを開く。 /// 続きは本誌ご参照
2010年のオープン目指す―満蒙開拓平和記念館を設立へ 飯田日中などが準備会設立43
日中友好協会     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2008年3月25日)
全国で最多の満蒙開拓団を送り出した長野県下伊那で、飯田日中友好協会を中心に「満蒙開拓平和記念館」の建設準傭が進んでいる。満蒙開拓に特化した記念誼は全国でも初めて。準傭会は「戦争という負の遺産を平和希求、友好交流という正の遺産に置き換えたい」と意気込んでいる。 /// 続きは本誌ご参照
異説 日本人公墓の由来44
奥村正雄
1月中旬、知人が1冊の書籍を送ってくれた。『満州移民一飯田市下伊那からのメッセージ』(編集・飯田市歴史研究所、発行・現代史料出版)である。第1章 満州移民の前史―1920年代、30年代の飯田下伊那;第2章 満州移民の送出と開拓地の生活;第3章 逃避行から引き揚げヘ;第4章 満州移民の戦後史という構成。すでに周知のように長野県は満蒙開拓団を最も多く送出した県であり、旧泰阜村の分村移民など、飯田下伊那と開拓団の歴史は、かねて知りたいと思っていたものの一つだった。それが繭値と飯田の男が遊郭で遊ぶ金額との関連づけなどを読み進むうち、その説得力に圧倒された。 /// 続きは本誌ご参照
日中友好の原点を歩く―日本人公墓と撫順戦犯所などを訪ねる旅47
方正友好交流の会
日中平和友好条約が締結されてから30年。日中間ではしばしば歴史認識のギャップから、絶えず摩擦が浮上しています。それが両国で、反日感情や嫌中感情を煽るという、不毛な事態が生まれています。このようなナショナリスティックな動きを見るにつけ、方正日本人公募や日本人戦犯が収容された撫順戦犯管理所の存在と、そのありようは、多くのことを教えてくれ、ある種の光明をもたらすものと思われます。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会第4回総会のご案内49
方正友好交流の会
日時:6月7日(士) 午後2時~4時半、場所:中央大学駿河台記念館620号室 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第4回)50
大類善啓
《前回までの粗筋》遼寧省で生まれた韓慶愈は、1943年「満州国」から茨城県の大田中学に留学したが、戦局は悪化、新潟から船で帰国しようとした。ところが、ソ連の参戦や日本の敗戦のため出港した船は中国へ行かず、日本に舞い戻ってきた。やっと日本から解放されたと思ったが、蒋介石の国民党代表団からは、「祖国を裏切った漢奸」とみなされ国民党に失望。新聞記者の見習いをしながら東工大に進学した。新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促した。韓も1953年の第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に、中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出せ」という。韓は一瞬躊躇したが、日本に戻り、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、1952年には、高良とみ、帆足計、宮腰喜助ら3人の国会議員がモスクワから訪中、日中貿易の先駆けを作った。その後、李徳全を団長とする中国紅十字会代表団や、京劇の名優・梅蘭芳も来日、韓は通訳などで活躍した。私生活でも美津と結婚、公私とも充実した人生を送っていた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い56
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されています。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た、ある残留日本婦人が骨を拾い集めました。力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体近いともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内57
方正友好交流の会
『中国残留邦人一置き去られた六十余年(井出孫六著)』、『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編)』、『「満州」経験の社会学一植民地の記憶のかたち(坂部晶子著)』、『大陸の花嫁(井節紀久枝著)』、『中学生の満州敗戦日記(今井和也著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告61
大類善啓
今年、会報5号発行後、カンパをお寄せいただいた方、また新たに会員になられた方々のお名前を記して感謝の意に代えます。ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
 
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