方正友好交流の会
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星火方正
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第4号(2007年5月発行) / 1冊18記事 を表示しています。

  第4号(2007年5月発行) 第4号(2007年5月発行)表紙

曠野に果てたちちはは1
衞藤瀋吉(東京大学名誉教授)
『就友』と題する小さなパンフレットを庵谷磐さんから10年程前に頂いた。庵谷さんは私と同じ奉天一中の先輩、引揚孤児のアフターケアや残留孤児の厚生に身を挺している義人である。『就友』は「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」という会の機関誌である。その表紙に短い詩が記してある。かつて別なところでも紹介したが、激しく胸を打ち、忘れられないので、ここでも紹介させて頂く。 /// 続きは本誌ご参照
方正―魂の交流の場3
高良真木(画家)
2004年の夏、小泉首相の度重なる靖国神社参拝で、日中関係は国交正常化以来最悪と言われていた。重慶や北京のサッカー試合では、中国の若者が日本チームに激しいブーイングを浴せていた。ちょうどその頃、元満蒙開拓団関係者から墓参団の一部始終を綴った手紙を頂いた。(以下要約) /// 続きは本誌ご参照
故・宮沢一三さんを悼む―方正日本人公墓の支援に尽力した生涯5
寺沢秀文(飯田日中友好協会副理事長、方正友好交流の会理事)
元満蒙開拓団員であり、方正日本人公墓の支援活動等にも尽力された長野県高森町の宮沢一三さんが昨年12月23日に肺炎と合併症のためにお亡くなりになった。享年76歳、長寿社会となった今日ではまだまだこれからというお年なのに残念でならない。 /// 続きは本誌ご参照
母の死刑を無罪に変えたのは周恩来―崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白8
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
松田ちゑさんの息子・崔鳳義さんが自伝を完成させた。中国語でA5版、310ページ。自分でパソコンを打ち、プリントし、製本まで自分の手ひとつで仕上げた、文字通り1冊1冊、手づくりの半生記である。「東京回想録 崔鳳義著 2006年12月 日本東京」なぜこの本を書いたか、本のタイトルをなぜ「東京回想録」としたか、序言で彼はこう記している。 /// 続きは本誌ご参照
私たちの方正日本人公墓11
長田末作(新潟県開拓民殉難者慰霊祭世話人代表)
新潟県開拓民自興会は昭和22年に結成されたが、会員の老齢化、資金面その他の諸般の事情により平成7年、新潟県開拓民自興会の名称を閉じ、以後は県出身元義勇隊会員を中心に新潟県開拓民殉難者慰霊祭世話人会の名称で、昭和35年に新潟県護国神社境内に建立した満洲開拓民殉難碑を守り、毎年8月9日慰霊祭を執り行うことを目的として今日に至っております。 /// 続きは本誌ご参照
負の遺産こそ大切に12
名取敬和(本会会員)
私は、昭和16年父母に連れられ(旧満洲)木蘭県富士見分村に開拓移民として入植しました。当時開拓団にはトラックターなどなく、内地から徴用されてきた軍用馬を使い、北海道農法で、大きなプラウ(犂)を馬に牽かせ荒地を開墾する。馬も馬具ずれで肩や背中の皮が剥げ肉が見える、人馬共に並大抵な作業では有ませんでした。3、4年して耕地も拡大し基盤も整い、食糧を増産し、軍部や行政関係に供出していました。しかし20年8月15日青天の霹靂、敗戦の苦難は何処も小差はあれ大差はなかったと思います。我が富士見分村は、ソ連軍の侵入についても団長が決死的行動で退去させ、又、幹部の英知と指導により団員が一致協力していたこと、それに天助が有ったからとも思います。北満の開拓地としては犠牲者も少なく、帰国者は3分の2、残留孤児は1人でだけで、後日帰国しています。 /// 続きは本誌ご参照
文化:こころの風景14
井出孫六     転載元:朝日新聞(2007年2月13日~21日付夕刊の連載5回)
ここに掲載した井出さんの文章は、「中国残留孤児が国家賠償訴訟を起こした事に対して、東京地裁が原告側の主張を全面的に否定したすぐ後朝日新聞夕刊文化欄に5回にわたって掲載された。井出さん及び朝日新聞の了解のもとに、改めて読者諸氏に提供する。転裁を快くご許可くださった井出さんに御礼申しあげます。 /// 続きは本誌ご参照
いま なぜ この旅を?―消えない昨日と 迫りくる明日と16
方正友好交流の会
/// 続きは本誌ご参照
会員便り:悲惨な郷土の歴史をどう伝えるか18
加藤童幸(島根県益田市・大頂子東仙道開拓団の証を守る会)
永らくご無沙汰いたしました。昨年6月にお願いいたしました「貴会が所有される満州開拓に関する資料」のことにつきましてお手持ちがないということで、会員の中でお持ちでなかろうかという方のご紹介を頂きましたが、そのままで頓挫させてしまいましたこと申し訳なく思っています。そのさい申しあげました「石見郷土研究懇話会」の美都大会は8月26・27日に会員約150名で開催されました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:昔を繰り返す事のないように19
野田良雄(新潟県上越市)
3月に83才になります。昭和16年夏17才の時、文部省の募集で「満洲建設勤労奉仕隊」に参加、6月~8月末迄、東満虎林近くの清和開拓団で生活して来ました。l9才~20才の友人が多く、大方の人は戦死されたと思いますが幸い私は、兵役は内地(仙台)でしたので無事復員しました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:引揚げ後知った開拓団の人々のご苦労19
大崎やま子(福島市)
始めまして、先日御業書をいただきました大崎でございます。実は私、小学校五年生から終戦引揚げ迄十三年間、中国瀋陽市(奉天市)で生活して居った者でございます。当時は両親の庇護のもと、また国家の力も強かった事も有り、幸せそのものでございました。子供でも在りましたので、開拓民の方々の生活は全く知らずに居りました。 /// 続きは本誌ご参照
会員便り:私と方正県20
佐貫幸雄(山口県山陽小野田市)
私と方正県の関わりは方正県新興村(天門郷付近)出身の女性と2005年1月に結婚したのが契機です。いろいろ調べて日本人にとって大変ゆかりの深い地域で、公墓もその時に初めて知りました。 /// 続きは本誌ご参照
中国から送られてきた写真集『中国残留孤児』21
奥村正雄
春節の少し前、突然、中国・ハルビン市の石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母の会秘害長)から1冊の分厚い写真集が送られてきました。同封されてきた石さんの手紙にはこうあります。 /// 続きは本誌ご参照
書籍紹介:「満洲 記憶と歴史(山本有造編著・京都大学学術出版社)」22
大類善啓
昨年の11月、「引揚60周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと~」が国際善隣協会などの主催で開催された。ほとんど「満洲」体験者と思われる人々で、会楊は入りきれないほどだった。講演した加藤聖文氏(人間文化研究機構)が会楊を見回し、「引揚げ体険が現実でなく、歴史になってきた」と語った。また、会場を埋め尽くした参加者に閉群の挨拶をされた松岡満寿夫氏(本会会貝・東北地区連合会会長、財団法人・満鉄会理事長)の言葉もひときわ印象的だった。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第2回)25
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
《前回の粗筋》遼寧省の貧しい村で1926年(昭和元年)、韓慶愈は生まれた。その2年後、張作霖が関東軍によって謀殺された。1932年、「満州国」が成立。韓はハルピン第一国民高等学校に進学した。3年になった時、学校から日本留学の推薦があった。母親は「負ける国に行けば殺される」と反対した。しかし父は「亡国する日本も見てきていい」と送り出してくれた。1943年(昭和18年)4月、留学先である茨城県の大田中学に入学。校長を始めみんなは親切に接してくれた。が、戦況は悪化。1945年、水戸も空襲された。日本の敗北は時間の問題だった。「満洲国政府」から、韓に帰国命令が下った。友との別れの挨拶もできないまま、45年8月8日、新潟から帰国船に乗った。船は出港したが、様子がおかしい。船上のマイクが「ソ連参戦」を伝えていた。その船上で日本の敗戦を知る。船は迂回して敦賀に入港。韓は、予想もしなかった日本に再び戻ってきた。敗戦の日本で食糧を求めて、東京、京都へ、そして盛岡へ。また北海道にも留学生仲間と出かけた。そこで、中国から強制連行されてやって来た中国人たちの存在を知った。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い37
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に、日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が、この方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍のご案内38
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『天を恨み 地を呪いました一中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記39
大類善啓
4月の初めから1週間ほど、日中科学技術文化センターの仕事で、センターの常任理事でもある凌星光氏(日中関係研究所所長、福井県立大学名誉教授)と共に、北京、成都に出張した。その折りのことである。会談や宴席で、凌氏が私のことを当会のことに触れて紹介した。すると、中国側の関係者がたいへん驚き、有意義な仕事だ、感激したと語ってくれたのである。凌氏も私も、思わぬ中国側の反応に、改めてこの仕事の重要性に思いを新たにした。 /// 続きは本誌ご参照
 
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