方正友好交流の会
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星火方正
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第35号(2022年12月発行) / 1冊60記事 を表示しています。

  第35号(2022年12月発行) 第35号(2022年12月発行)表紙

日本敗戦後の中国で8年間流転した私:父の中国留用から新中国の誕生、後期引き揚げまで1
新宅久夫
解説:本稿は、2022年6月5日(日)、日本教育会館で開催した方正友好交流の会・第18回総会後に行われた新宅久夫(しんたく・ひさお)さんの講演記録である。新宅さんは以下に詳しく記されているが、1935(昭和10)年、旧満洲の新京(現、長春)で生まれ、父親の仕事の関係でその後ハルピンに移り、日本の敗戦をハルピンで迎えられた。敗戦後も中国で残り、1953年に日本に帰国され、得意の中国語を生かして日中間の貿易業務に従事される一方、日中友好運動に関わってこられ、現在、関東日中平和友好会・会長としてご活躍である。 /// 続きは本誌ご参照
国家も軍隊も開拓団員を護らなかった:第13次満洲東京荏原開拓団のこと21
東海林次男
2016年11月26日発行の「東京歴教協ニュース」第416号に、標記のタイトルで、〜棄⺠にされた「満蒙開拓団」を追い求めて〜という副題で雑文を書いた。歴史教育者協議会の東京支部という位置づけの機関紙に書いたもので、ごく限られた会員しか目にしていないので、一部改変して、紹介する。 /// 続きは本誌ご参照
サハリン残留を語る30
太田満
私がサハリン残留体験の語り部になろうとしたのは,中国帰国者支援・交流センターで戦後世代の語り部を育成するための研修会に参加したことがきっかけです。そこで,初めてサハリン帰国者(サハリン等での残留体験を経て日本に永住帰国された方)にお会いしました。その後,残留日本人の体験をよく知るために,北海道やサハリン,韓国にいる残留日本人宅を訪ねました。 /// 続きは本誌ご参照
「前事不忘後事之師」を心に刻み、「日中国交正常化50周年記念魯迅美術学院王希奇教授愛と償いの神戸展」は、9月4日成功裏に閉幕‼4日半で2000名超の来場者!日本のマスメディア7社で14回、中国の人民日報でも報道!!37
宮原信哉(実行委員会(代表:安斎育郎博士)事務局長)
2022年9月29日は、日中国交正常化50周年の記念日です。更に、9月18日は日中15年戦争の発端となった「柳条溝事件」の91周年に当たりました。1931年満州の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、大日本帝国の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件です。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。神戸展では9月開催に拘りました。当初は9/18開幕、9/29閉幕を予定しました。残念ながら4日半だけの開催でしたが、日中不再戦・恒久的日中友好を心に刻み、故周恩来首相が述べた「前事不忘後事之師」(意訳すると「過去を忘れず未来に活かそう」です)の思いを、一人の日本人として広くお伝えする事ができた絵画展になりました。 /// 続きは本誌ご参照
1945年8月15日「終戦の日」の想い出:敵国劣等国⺠から戦勝国国⺠へ50
凌星光(福井県立大学名誉教授)
毎年8月中旬になると、「終戦(敗戦)」の想い出話が新聞紙上を賑わせる。1933年生まれで12歳の私は、高等小学校一年生であった。当時の事をそろそろ書き残しておかねば先がないと思いながらも、時は過ぎ今日に至ってしまった。 /// 続きは本誌ご参照
「ウクライナ」世界・核戦争阻止:ただちに停戦永続的平和を52
星野郁夫
今年2022年2月24日夜、友人から私のところに電話がかかってきた。友人というのは、1960年代前半、⻘年学⽣運動で苦楽を共にした福島の二本松で、かつて市⻑をされていた根本尚美君からのものだった。忘れもしないこの日は、ロシアのプーチン大統領が隣国のウクライナに向け軍事進攻を開始した日であり、このことについてであった。 /// 続きは本誌ご参照
1950年代、戦没者遺児の靖国参拝の不思議な旅があった65
宮武正明
1959年8月下旬、中学3年生の私は四国・高松から東京まで4泊5日の不思議な旅をした。初めての東京だった。「昭和34年度遺児靖国参拝」。実施は「香川県、各市町村、香川県遺族連合会」、中学3年生・遺児の参加者は687名。当時県内の中学3年生の総数は13500名であったので約5%がこの旅に参加している。終戦前年度(1944年度・昭和19年度)生まれの戦没者遺児の多さがわかる。この大集団を引率したのは、県・市町村の職員および4名の中学校教諭も加わった計47名であった。 /// 続きは本誌ご参照
永遠の隣国72
陳寬
突然、周恩来総理がメインテーブルを離れ、二輪の花を手にして私共のテーブルにおいでになった。先ず一輪を私の左隣りの杉村春子氏に、もう一輪を私の右隣りの高峰三枝子氏に差し出したのだ。同席の皆が一斉に歓声をあげた。その時の周総理のお茶目でチャーミングな笑顔、そして杉村、高峰両氏の驚きと感激の様子は今も尚私の脳裏に濃厚に焼き付いている。時、1972年9月25日午後6時30分、周恩来総理が日本国内閣総理大臣田中角栄氏一行を歓迎するために人民大会堂宴会場で催した宴会席での出来事である。 /// 続きは本誌ご参照
ヒマワリの種74
天野智子
占領されたばかりの町の通りに 機関銃を携えた 一人の若いロシア兵 一人の女性が 若いロシア兵の方へ 歩み寄ってくる /// 続きは本誌ご参照
私の愛しい孫は75
天野智子
あの日 私の孫は 突然家に押し入ってきた ロシア兵たちに連れていかれてしまった 私の夫は ロシア兵たちに代わりに自分を連れていくよう懇願した /// 続きは本誌ご参照
故郷の味76
天野智子
あるとき、昭和ヒトケタ生まれの一郎さんに「故郷の味は何ですか?」と尋ねた /// 続きは本誌ご参照
夢をつなげなかった子どもたちへ77
髙野好美(埼玉県県立高等学校教員)
ここに一枚の写真があります。八十年近く前の集合写真と思われます。よく見ると写っているのは全員若い女性と幼い子供たちです。画像でははっきりしませんが、若い女性たちがみなおんぶ紐をタスキ掛けにしているところを見ると背中に乳飲み子を背負っているのがわかります。季節は夏、日差しが強そうです。背景に写っている石造りの建物には「克東県署」と書いてあります。右手端に写っているトラックはドイツ製の村のトラックで荷台脇には「張文封村」と書いてあります。 /// 続きは本誌ご参照
忘れられた中国の写真家、沙飛80
加藤千洋(平安女学院大学客員教授)
日中国交正常化50周年の幕開けにロシアのウクライナ侵攻が始まり、その戦火が拡大中の本年4月、私は日中戦争(中国では抗日戦争)に題材をとった戦争と人間のドラマを、『沙飛〈中国のキャパ〉と呼ばれた戦場写真の先駆者』と題して上梓した。主人公の沙飛のこと、そして彼の伝奇的な人生の足跡を中国で追った取材の一端をご紹介したい。 /// 続きは本誌ご参照
「中国残留婦人―家族―」写真展開催、写真集を出版して84
千島寛(フリーカメラマン)
写真展は7月18日から20日迄の3日間、かながわ県民センターで開催しました。神奈川新聞社、神奈川県日中友好協会、横浜日中友好協会の後援もあり多数の方々のご来場を得ました。その中には方正友好交流の会の森一彦さん、広田彰夫さん、藤原知秋さんたちが遠路はるばる横浜迄足を運んでくれました。ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
悲しみ怒りと報復の連鎖を断ち切って:方正と撫順戦犯管理所への思い86
姫田光義
最近上梓した拙著『中国現代史の散歩道』(桜井書店)の狙いというか願いは、現今の日中関係の悪化の下で、「引っ越しのできないお隣の国々と仲良くしないで日本の真の平和はありえない」との思いから、「平和と日中友好」のための一つの素材を提供したいということだった。 /// 続きは本誌ご参照
『断層の昭和偽りの沃野』を上梓して88
土屋伸
この度、文芸社より小説『断層の昭和偽りの沃野』を刊行しました。昭和という元号で示された1926年から1989年の60余年は、昭和の名のもとにひとくくりできる時代ではありません。戦前、戦中、戦後、高度経済成長期と大きな断層面を持ち、変転の歴史を繰り返した時代です。 /// 続きは本誌ご参照
『転生満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和(牧久著)』について90
東宮春生
『転生』という書名について著者の牧久さんは次のように話しています。左翼が右翼に変わることを一般に「転向」といいます。では、右翼が左翼に変わることは何と言えばいいのか。清朝最後の皇帝で満州国皇帝にもなった溥儀は、撫順戦犯管理所で徹底した思想教育を受け、最後は共産党員、共産主義者になります。実弟の溥傑は、日本で学習院から陸軍士官学校を出て、陸軍大学校まで入った軍人です。そんな二人の数奇な生涯は輪廻転生の「転生」としか表現し様がない。本のタイトルの「転生」にはそんな意味が込められていると紹介されました。 /// 続きは本誌ご参照
『忘却のための記録(清水徹著)』を読んで91
堀泰雄
この本の著者・清水徹は、1930年にソウル市に生まれた。徹の父は、やがて朝鮮半島最北の咸境北道の鉄道機関区に勤務するようになる。1945年8月9日、この日の早朝、ソ連軍は中立条約を破棄し、咸境道地域への空爆を始め、同時に地上からの侵攻も始める。11日には雄基、羅津に、13日には清津に上陸作戦を開始し、清津では日ソ両軍の死闘が繰り返された。咸境北道は戦場と化し、この地に住む朝鮮人や日本人は戦場を逃げ惑う難民となった。 /// 続きは本誌ご参照
『1945わたしの満洲脱出記(稲毛幸子著)』を読んで92
堀泰雄
友人が「読むかい?」ともって来たのがこの本だ。帯には「婦女誘拐、強姦-ソ連兵に狙われた若い娘たち」とあり、著者は、大正生まれ、99歳の女性である。彼女の夫は満州の奥地で、森林の伐採、造林、測量などを行っていた満州林業人、というが、こんな仕事をしていた人がいたとは初めて知った。夫が重要な仕事に従事していたことで、多くの開拓団の避難民が女性、老人、子どもだったのに比べると、男手が家にいたという幸運で、稲毛さんは帰還できたともいえる。 /// 続きは本誌ご参照
槇村浩と飯山達雄のこと93
大類善啓
加齢化現象なのか、この頃、小さい字をよく読み間違えてしまう。前号(34号)の拙文、<王希奇「一九四六」高知展を見に行く>の中、P28の<反骨精神豊かな高知を知る>の中で、詩人の槇村浩のことを紹介したが、植と槇は見た感じは一見似ていたため誤って植村(うえむら)と記してしまった。ご寛容のほどを。 /// 続きは本誌ご参照
「星火方正」へ高まる評価103
大類善啓
このところ、わが方正友好交流の会が出している「星火方正」が好評で、三年ほど前だったか、広告を一切取らないユニークな「週刊⾦曜⽇」の⼩林和⼦編集⻑から、「この充実した会報が会費とカンパで出ているなんて驚きです」という手紙をいただきました。⼩林さんはこの一⽉編集⻑を勇退しましたが、便箋に三枚ほどの手紙をいただき、とても嬉しくなりました。 /// 続きは本誌ご参照
今こそ人類人主義を!:国際主義を超えて、エスペラントの内在思想を深めたい ソ連侵攻と敗戦で生まれた残留婦人と孤児たち106
大類善啓     転載元:善隣(2022年5月号)
中国が文化大革命を終え、新たな改革開放政策に舵を切った1980年代には、日中関係でも新たな現象がいろいろと現れた。その一つが思いもしなかった旧満州からの残留日本婦人や孤児たちの姿だった。それは大きな衝撃を人々に与えた。 /// 続きは本誌ご参照
前号表紙説明の誤りについて115
大類善啓
前号の34号の表紙について、高知市の玉置啓子さんから、高知市にある「日中不再戦」碑が取り上げられたのは嬉しいが不正確な点があるというご指摘をいただいた。玉置さんは日中友好協会高知支部の役員で、平和資料館草の家の役員もしておられる方である。 /// 続きは本誌ご参照
抑留生活 希望の激励117
浦西啓介     転載元:読売新聞(2022年8月15日付)
第2次世界大戦後、旧ソ連軍の捕虜となった近田明良さん(96)(東京都福生市)は抑留先のウクライナで、父親が日露戦争で日本軍の捕虜になったというウクライナ人男性と出会った。「あなたも必ず帰れる」。男性の言葉は寒さと飢えが続く収容所生活で心の支えだった。ロシアによるウクライナ侵略で強制連行に対する非難が強まる中、「いつまで悲劇を繰り返すのか」と憤る。 /// 続きは本誌ご参照
抑留者の道路 無残:元日本兵 露の攻撃に怒り118
竹内駿平     転載元:読売新聞(2022年8月23日付夕刊)
ロシアの侵略開始から半年となるウクライナの東部に、第2次大戦後、ソ連に抑留されて現地に送られた日本人が建設に携わったとされる道がある。 /// 続きは本誌ご参照
戦後77年:氏名不明なお1.5万人 きょう シベリア抑留「追悼の集い」20回目119
青島顕     転載元:毎日新聞(2022年8月23日付)
第二次世界大戦後に旧ソ連・モンゴルに連行され、労働を強制されて亡くなった約6万人の日本の元兵士らの「追悼の集い」が23日午後1時、千代田区の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開かれる。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民と孤老たち(上):残留孤児「私たちは4回棄てられた」120
木下貴雄(王栄)     転載元:東京新聞(2022年8月9日付)
2022年は旧満州国(現中国東北部)の建国から九十年という節目の年である。そして、あの悲惨な戦争が終わってから七十七年が経つ。時代は「昭和」から「平成」へ、そして「令和」へと変わって四年。戦争の歴史は確実に風化し、人々の記憶から消えようとしている。中国残留孤児を生んだ「満州移民」の歴史も忘れられようとしている。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民と孤老たち(下):落葉帰根「せめて晩年は穏やかに」121
木下貴雄(王栄)     転載元:東京新聞(2022年8月16日付)
二年前に他界した父も中国残留孤児の一人だった。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(上):国の責任で生活支援を122
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月19日付)
戦時下の国策で中国東北部(旧満州)に開拓民などとして送られ、1945年の日本敗戦時に中国に取り残された「中国残留日本人」。72年の日中国交正常化以降、1世とともに2世が永住帰国しました。言葉が壁となり安定した収入を得ることが難しいなど多くの困難を抱えています。帰国した2世たちは国の責任で生活を支援することを求めています。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(中):援護不十分なまま25年123
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月20日付)
「夏は暑くてもクーラーをつけずに過ごすことが多い。物価高でますます節約志向になりました」空調のスイッチを入れながらこう中国語で話すのは中国残留日本人2世の宮崎一也さん(69)です。長崎市内の県営住宅で妻の智子さん(59)と暮らします。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人2世のいま(下):望みは「新支援法」改正124
田中真聖     転載元:しんぶん赤旗(2022年8月21日付)
日本中国友好協会や九州中国帰国者2世連絡会などは2018年、「中国『残留孤児・婦人』2世の生活支援等を求める請願署名」の活動をスタートさせました。 /// 続きは本誌ご参照
日中50年:「中国にルーツ」半数話せず:4割「当時知らない」残留邦人3世114人 本誌調査125
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年9月24日付)
日本に永住帰国した中国残留邦人の孫にあたる3世を対象に毎日新聞がアンケート調査を実施したところ、半数以上が「中国にルーツがあることを、話せなかったり隠したりした経験がある」と回答した。1世から直接、当時の体験を聞いたことがない割合は4割を超える一方、このうち「知りたい」と答えた人は8割に上った。3世が1、2世と比べて幼少期から日本社会に溶け込む半面、ルーツとの向き合い方に葛藤を抱えている現状が浮かんだ。 /// 続きは本誌ご参照
証言・戦争:思わず「死んでくれ」と…126
林直子     転載元:しんぶん赤旗(2022年9月24日付)
鉄本良子さん(87)は1935年、植民地下の南朝鮮で日本人の両親のもとに生まれ、10歳の時終戦で日本に引き揚げました。 /// 続きは本誌ご参照
元残留孤児 願う平和:国交正常化50年 帰国者らの思い128
柳沼広幸     転載元:朝日新聞(2022年9月29日付)
第2次世界大戦の日本の敗戦で、混乱する中国に取り残された日本人孤児らがいた。1972年の日中共同声明で国交が正常化したことで日本への帰国を果たした人もいる。9月29日は国交正常化から50年。苦難を乗り越えてきた元残留孤児や帰国者3世らは何を思うのか。 /// 続きは本誌ご参照
日中半世紀 残留孤児のいま:3世代かけ根付いた日本 母を捜し帰国 姓は角栄から129
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2022年9月30日付)
中国残留孤児の田中君生さん(82)=東京都江東区=は、「本当の日本人になれた」と言う。実母と生き別れ中国で暮らし、1994年の永住帰国後も苦労を重ねてきたが、いまは心穏やかな日々を送る。子どもや孫が日本社会にしっかりを根を下ろしているからだ。日中国交正常化から29日で50年。3世代のそれぞれの思いは――。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(上):日本人であり中国人 「自分は何者」ルーツ知り語り部に130
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年9月30日付)
戦前や戦中に旧満州(現中国東北部)へ渡り、戦後の混乱で取り残された中国残留邦人。調査や帰国のきっかけが1972年の日中国交正常化だった。それから30年。日本で生まれ、ルーツに誇りを持てなかった3世は、祖母から体験を聞いたことを機に、「自分は何者なのか」という問いに答えを出した。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(中):自分は「王」再び名乗り 米留学 内面語り合いルーツ受け入れ131
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月3日付)
幼い頃に使わなくなった「王(ワン)」という名字を、自らの意思で再び名乗り始めた。「日本育ちの中国ルーツ。こんな日本人がいてもええやん」。中国残留邦人3世の女性の決断は、母との長年のわだかまりをとくきっかけにもなった。 /// 続きは本誌ご参照
私(わたし)と我(Wo)のはざまで―中国残留孤児3世(下):板挟みの思い発信する 自らの歴史直視 小説や映像に132
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月4日付)
日本と中国を往復し、二つの母国のことを理解するたびに、国同士が緊張を高めている現状が歯がゆかった。中国残留邦人3世の佐藤昇さん(33)=東京都=は、自分の経験をベースにした小説を中国語と日本語の両方で出版。両国の人たちの距離を縮められたと考えている。 /// 続きは本誌ご参照
オピニオン 記者の目:[中国残留邦人3世]二つのルーツで葛藤133
飯田憲(毎日新聞東京社会部)     転載元:毎日新聞(2022年10月19日付)
戦前・戦中に旧満州(現中国東北部)へ渡り、終戦の混乱で現地に取り残された中国残留邦人。私はこれまで当事者を取材するたび、「戦争被害の延長」という見方だけにとらわれすぎていた気がする。この半年間、孫に当る3世たちの取材を重ねる中で、その文脈だけでは語りきれないと強く思うようになった。100人を超えるアンケートから浮き彫りになったのは、1世や2世が経験した言語の壁や生活苦とは違う、「自分は何者なのか」とルーツを巡り、生きづらさや葛藤を抱えている姿だった。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留邦人 苦難継承を:戦後世代が語り部担う「日中のはざま 壮絶な人生知って」134
東京新聞     転載元:東京新聞(2022年10月21日付)
戦前戦中に国策で中国東北部(旧満州)に渡り取り残された中国残留邦人の苦難を語り継ごうと、子や孫の戦後世代が語り部として活躍している。帰国の契機となった1972年9月の日中から半世紀。語り部たちは「日本と中国のはざまで生きてきた壮絶な人生を知ってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
優しさも強く「戦争反対」:早乙女勝元さん死去 90歳、若い世代にも伝え135
三宅千智、井上靖史     転載元:東京新聞(2022年5月12日付)
戦争の惨禍を伝えるため早乙女勝元さんが創設した「東京大空襲・戦災資料センター」(東京と江東区)では11日、2002年3月9日のセンター開館式であいさつする早乙女さんが写るパネルを展示し、追悼の意を表した。 /// 続きは本誌ご参照
81年前 治安維持法で逮捕:「最後の生き証人」自由求め力の限り136
加藤益丈     転載元:東京新聞(2022年5月12日付)
戦前、思想・言論弾圧に利用された治安維持法で逮捕された北海道旭川市の菱谷良一さん(百歳)が11日、支援者とともに国会を訪れ、同法を悪法と認め、弾圧の被害者に謝罪や賠償をするよう国会議員に要請した。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄復帰50年:「基地のない平和」遠く 「米軍」集中 県民の思い137
山口哲人、原昌志、村上一樹     転載元:東京新聞(2022年5月14日付)
沖縄の本土復帰から15日で50年。米軍基地の集中は変わらず、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設計画に伴う名護市辺野古新基地建設への反発も強い。復帰当時を知る人や、基地問題に取り組んできた人たちに思いを聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦争の心の傷 実態調査を 元兵士の家族ら証言集会138
東京新聞     転載元:東京新聞(2022年8月8日付)
太平洋戦争の戦地から復員し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えていたとみられる元兵士の家族による証言集会と交流会が7日、東京都武蔵村山市で開かれた。 /// 続きは本誌ご参照
日本兵捕虜の実像 後世に:日露戦争の歴史 ロシア北西部住民が発掘139
小柳悠志     転載元:東京新聞(2022年8月8日付)
ロシア北西部ロブゴロド州に、日露戦争(1904~05年)で日本兵約1800人が暮らした捕虜収容所があった。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:魚雷で沈没 空母「瑞鶴」 みんな「お母さん」と言って 元乗組員 近藤恭造さん(93)140
加藤益丈     転載元:東京新聞(2022年8月13日付)
甲板に脱出した時には艦体は大きく傾き、海に逃れた仲間は米軍機の機銃掃射を浴びた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦争協力を自戒 おろかもの之碑 群馬公職追放経験者が61年前建立141
小松田健一     転載元:東京新聞(2022年8月13日付)
群馬県中之条町の古刹に「おろかもの之碑」と刻まれた珍しい石碑がある。 /// 続きは本誌ご参照
伝える 戦後77年:死ぬか殺されるか 極限状況 旧満州国で生まれ育った松村章さん142
柳沼広幸     転載元:朝日新聞(2022年8月17日付)
みどり市大間々町桐原の松村章さん(87)は、旧満州国(現在の中国東北部)の首都・新京(現吉林省長春)で生まれた。満州国は、松村さんが生まれる2年前の1932年、日本が主導してつくった傀儡国家だ。 /// 続きは本誌ご参照
取材ファイル:戦後沖縄 庶民の息遣い 元琉球大教授 早すぎる死惜しむ声143
吉原康和(東京新聞編集委員)     転載元:東京新聞(2022年8月20日付)
悲しみの訃報に接してから半月後の8月上旬、1冊の本が出版社から記者の自宅に届いた。 /// 続きは本誌ご参照
つなぐ 戦後77年:戦時下、獄中15年家族と交わす 言論統制 悲しき1000通144
谷口武     転載元:東京新聞(2022年8月23日付)
自由な言論が統制された戦時下、治安維持法違反の容疑で逮捕され、約15年を獄中で過ごした静岡県伊豆市出身の男性がいた。砂間一良さん(1903~92年)。 /// 続きは本誌ご参照
「私はアイヌ民族」差別で名乗れず:人口06年から10年余でほぼ半減?145
木原育子     転載元:東京新聞(2022年10月22日付)
「私はアイヌ民族です」――。そう名乗れないアイヌが増えている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:加害の歴史 見詰めよ 「持っていた権利 取り戻したいだけ」147
木原育子     転載元:東京新聞(2022年5月22日付)
「アイヌ施策推進法」が2019年5月24日に施行されてまもなく3年。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:今問う部落差別 非当事者に響け ドキュメンタリー映画 異例ロングラン149
西村直晃     転載元:東京新聞(2022年10月24日付)
部落差別の歴史と現状を紹介するドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」が5月の封切りから異例のロングランを続けている。 /// 続きは本誌ご参照
時代を読む:拝啓・安倍晋三様150
田中優子(法政大学名誉教授・前総長)     転載元:東京新聞(2022年10月2日付)
拝啓安倍晋三様。国葬が終わりました。おかげさまで国葬までに実に多くのことが分かり、またあなたさまの言動を改めて思い出すことになりました。 /// 続きは本誌ご参照
1930年代の世界映す エスペラントの手紙:群馬で293通発見 書籍化151
小松田健一     転載元:東京新聞(2022年11月15日付)
世界共通語としてつくられた「エスペラント」を使い、戦前・戦時期に欧米やアジアの人びとと文通していた大量の手紙が群馬県藤岡市の民家で見つかり、その内容を和訳、書籍化した「1930年代を生きたエスペランチストたち」(ホリゾント出版)が刊行された。 /// 続きは本誌ご参照
書評:『周恩来と日本』(王敏著)152
高杉貞明     転載元:日中友好新聞(2022年8月5日付)
新中国建国後、死去するまで首相を務めた周恩来は1917年日本に留学、大学受験に失敗し、1年半ほどで帰国しました。 /// 続きは本誌ご参照
書評:『平頂山事件を考える―日本侵略戦争の闇』(井上久士著)153
福田和男     転載元:日中友好新聞(2022年10月15日付)
平頂山事件研究の第一人者で日中友好協会会長の著書を新著に駆り立てたのは、ウクライナと「満州」が重なって見えたからだという。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特捜部:自国の加害は 本当の愛国は 沈黙破るイスラエルの若者154
北川成史     転載元:東京新聞(2022年11月16日付)
パレスチナ問題を30年以上取材してきたジャーナリストによるドキュメンタリー映画が完成した。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い156
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記157
大類善啓
会員諸氏、そして支援者の方々、皆さまのあたたかいカンパのお陰で、「星火方正」35号を刊行することができました。ありがとうございました。また、寄稿いただいた方々、ありがとうございました。原稿に挿入されている写真は、制作費用の関係ですべてカラーにはできませんでしたが、ご事情を理解いただきたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
 
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