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第34号(2022年5月発行) / 1冊 の 60記事 を表示しています。
- 「黒川分村開拓団」での出来事と黒川遺族会の活動1
- 寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
- かつて旧満州(現在の中国東北地方)に全国各地から渡満した「満蒙開拓団」、その最後の場面では、現地に取り残され、多くの犠牲を出した悲惨な歴史でもありました。その終戦後の現地越冬の中での悲惨な出来事の中には、女性、子供、老人など、弱い者が更に辛く、悲しい目に遭うことも沢山起きています。その中でも、岐阜県内から渡満した「黒川分村開拓団」での出来事、それは現地暴民等による襲撃から開拓団を守るためにと、開拓団の若い女性たち15人をソ連兵の元に性接待(記事等で多用されるこの言葉自体には私は抵抗感がありますが)のために送り出したという悲しい、惨(むご)い出来事については、それを体験した受難女性の生存者の皆さんの「この事実は語り継ぎ残さなくてはならない」と言う強い思いと、そしてその思いを受けて、このことに近年になって真摯に取り組み始めた黒川開拓団の戦後組織である「黒川分村開拓団遺族会」による熱心な取り組み活動等もあり、広く世に知られるところとなった史実でした。 /// 続きは本誌ご参照
- 声明文:今般出版の書籍に関して7
- 藤井宏之(旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会会長)
- 私ども黒川分村遺族会は、旧満州への開拓団であった黒川開拓団の引揚者による戦後組織として発足し、現在まで現地での犠牲者の慰霊と共に満蒙開拓の史実の語り継ぎ等に取り組んでいる任意団体です。この度、この黒川開拓団での終戦直後の苛酷で悲惨な女性たちの史実等を取り上げた平井美帆著『ソ連兵へ差し出された娘たち』が出版されました。そのことに関し、当遺族会として以下の通り反省等の思いを述べると共に、その上で、当書籍における問題点等についても指摘させていただくところです。 /// 続きは本誌ご参照
- 黒川開拓団遺族会の声明文を受けて9
- 寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
- 今般、黒川開拓団遺族会が出された声明文を受けて以下の通りコメントさせていただきます。私共は2013年4月に長野県阿智村に国内初の「満蒙開拓」をテーマに開館した民間運営の記念館です。かつて国策のもとに「旧満州国」へ渡った開拓団。多くの惨い犠牲があった一方で、中国側などにも犠牲を強いた加害の面も持つ歴史であり、さらに国策として推進した立場の人々等にとっても向き合いにくい史実であったため、戦後はほとんど語られないまま、社会の中でも顧みられないまま、風化しつつありました。しかし、今こそこの歴史に向き合い、学び、伝えていかなければならないという思いから、史実継承の拠点となる記念館を立ち上げ、運営しています。その設立趣旨に賛同される多くの皆様方との交流も多い中で、今般の黒川開拓団遺族会の皆様とは開館前から同じ志を持つ立場として交流させていただいています。 /// 続きは本誌ご参照
- 性接待 伏せられた記憶12
- 藤井宏之(黒川分村遺族会会長)、聞き手:伊藤智章(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2018年10月20日付)
- 終戦直後、混乱する旧満州(中国東北部)で、満蒙開拓団の幹部から指示を受けて旧ソ連兵に「性接待」をした…。90歳前後の元団員女性たちの告白が、衝撃を与えている。当時、何があったのか。性暴力被害は、なぜ秘められてきたのか。証言活動を支える、岐阜県の黒川分村遺族会会長、藤井宏之(66)に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
- 乙女の碑13
- 旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会
- 昭和56年、遺族や元団員による慰霊団が旧満州を戦後初めて訪れ、「接待」の犠牲になって現地で命を落とした女性4人を慰霊しようと話が持ち上がり、翌年3月14日遺族会の浄財で「乙女の碑」を建立・序幕された。当時は犠牲になった女性や家族の思いもあり、碑文をつくることはできなかった。あれから36年がたち、私たちは後世に史実を伝えるため、今ここに「碑文」をつくることに決意した。 /// 続きは本誌ご参照
- 王希奇「一九四六」高知展を終えて14
- 﨑山ひろみ(王希奇「一九四六」高知展実行委員会)
- 「星火方正」の32号「2021年5月刊」でご紹介いただきました王希奇「一九四六」高知展(2021年11月28⽇〜12月5⽇)は、地方都市高知では驚異的な2782人という入場者を迎えて無事終えることができました。コロナ禍で開催が危ぶまれていましたが、秋に入って全国的に収まり始め、高知では11月半ばからゼロの⽇がずっと続いていましたので、県外からも多くの方をお迎えすることができました。 /// 続きは本誌ご参照
- 満洲引揚者を描く「一九四六 王希奇展」を観て16
- 新谷陽子
- 満洲開拓移民引揚75周年に当る2021年、高知市で引揚者を描いた巨大絵画展「一九四六王希奇(ワン・シー・チー)展」が開かれた。1946年、旧満洲(現中国東北部)の葫蘆(コロ)島港から105万人の残留日本人が大送還された史実をテーマにした大作である。 /// 続きは本誌ご参照
- 満洲引き揚げを描く大作を見て18
- 下山田誠子
- 『星火方正』32号に案内が載った美術展を観てきました。王希奇―「一九六四」高知展。戦後生まれの著名な画家、王希奇氏が「一九六四」と題して、残留日本人の大送還をテーマとしたこの大作、縦3メートル、横20メートルに及ぶモノクロの超大作です。松本から神⼾に、そして乗り継いで高知へ、会場は⽴派な高知市⽂化プラザ、ボランティアを含む多くの方が受付をしていました。会場の端から端までの墨絵のような超大作。葫蘆島から引き揚げ船を待つ各地から命からがら辿り着いた引き揚げ者の⻑い、⻑い群れ。多くは、ソ満国境に近い開拓団の方々。絵の中央部にやや光が当たり、うっすらと姿や表情が見てとれますが、他の⻑蛇の列の人たちの表情がわかりません。皆疲れ果てて、着のみ着のまま、裸足の人も沢山います。ここまでやっと辿り着いて命尽きた方もいるようです、端から端まで往復して拝見しました。安堵の顔、疲れきった顔、絶望的な顔など、その方々の背景に少しく想像を寄せてみました。 /// 続きは本誌ご参照
- 平和への伝言19
- たなかすみえ
- 誰にも話せなかった遠い時 重くのしかかる記憶が何だったのか 何年も何年も 時間が通り過ぎても 忘れることを許してくれなかった心がいた /// 続きは本誌ご参照
- 奈良・長谷川テル顕彰の会:王希奇「一九四六」高知展鑑賞バスツアーに参加して20
- 西久美子
- コロナ禍のもと、幸いにも感染拡大が収束傾向にある中でのバスツアーで、あまり感染の心配をすることなく、好天にも恵まれた久しぶりの遠出、快適で大変有意義な旅行でした。会場に着くと、﨑山ひろみさんが暖かく出迎えてくださいました。一時間あまりの鑑賞時間があっという間に過ぎ去りました。 /// 続きは本誌ご参照
- 負の歴史を次世代に語り継いでいかなければ:王希奇「一九四六」高知展で22
- 越山のぶ子
- 奈良から24名のバスツアーで新型コロナデルタ株の感染がおさまった時だったので(そんな決心の下)王希奇「一九四六」高知展を鑑賞しに高知までいくことが出来ました。戦後1946年中国満州から引き揚げられた崎山信義さんは自ら乗船した船のまとめ役を務められました。その時の船の中のことを事細かく記された「遺送便覧」というものが高知大学の図書館に所蔵されているそうです。その信義さんの連れ帰られた家族の中の三女ひろみさん(91歳)が中心となり、中国人画家王希奇(61歳)の絵画展「一九四六」が高知市で昨年11月28日~12月5日の期間開かれました。その絵は引き揚げ船に向かう日本人の姿を丹念に描いた縦3m横20mの油絵で水墨画の画法を融合させたものです。 /// 続きは本誌ご参照
- 王希奇「一九四六」高知展を見に行く24
- 大類善啓
- 「星火方正」32号(2021年5月刊)に、<王希奇「一九四六」高知展を開催するにあたって>という文章を、この展覧会実現に力を尽くした﨑山ひろみさんから寄稿していただき、またチラシに掲載されていた「一九四六」の絵を見て、この迫力ある大作を自分の眼で見たいと思い高知に出かけた。四国には一度も行ったことがない。さて、高知に行くにはどうやって行くのだろうと思っていたところ、「奈良・⻑⾕川テル顕彰の会」事務局⻑の⽥辺実さんから、<「一九四六」鑑賞バスツアー>を行う旨のメールが来たので、よしこのツアーに参加しよう、「テル顕彰の会」の人々ともいろいろお話しできると思い、すぐに参加を決めた。 /// 続きは本誌ご参照
- 「一九四六」王希奇(魯迅美術学院教授)神戸展のお知らせ31
- 宮原信哉(神戸展実行委員会事務局長)
- 今回、神戸展を企画した主な理由としては、以下の三点になります。一点目は、中国を代表する国民作家「魯迅」にちなんだ「魯迅美術学院」の王希奇教授授の大作「一九四六」には、戦争被害者や社会的弱者への思いが込められています。この大作の展覧会を、日中友好の思いを込め、中国残留日本人関係者や華僑の方々も大勢いらっしゃる阪神地区で開催したいという思いからです。二点目は満蒙開拓や旧満州(中国東北部)からの引き揚げの歴史を忘れてはならない思いと、併せて戦争がもたらす被害と加害の実相をお伝えしたいからです。三点目は、2022年は日中国交回復50周年の節目の年柄です。1972年9月29日に、田中角栄首相と中国の周恩来首相の間で調印されました。神戸展では9月開催に拘りました。日中不再戦・恒久的日中友好を心に刻み、周恩来首相の「前事不忘 後事之師」(前事を忘れざるは後事の師なり)も忘れてはならない思いです。 /// 続きは本誌ご参照
- 父の満蒙開拓体験談41
- 寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
- この体験談は平成22年(2010年)8月、長野県阿智村内にて開催された「満蒙開拓歴史展」(満蒙開拓平和記念館事業準備会が主催)の際に行われた「満蒙開拓・語り部の会」にて、父・寺沢幸男(てらさわ・ゆきお)が「語り部」の一人として体験談を語った時の元原稿です(8月25日に登壇)。以前に聞き取りしてあったものをベースに、読み上げ用の原稿にとまとめたものです。実際にはこの「語り部の会」の際には、時間的制約、父の体力的な問題等もあり、発表自体はこれを半分程度に短縮したものでした。私的範疇のものですが、編集部よりのご依頼もあり出稿させて頂きました。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正からの残留孤児の子どもを担任して54
- 松﨑直子
- 1975年、私が福岡市の中学校教師をしていた時、私の担任クラスに中国残留孤児の子が転入してきました。彼女は16歳で、すでに中学生の年齢を超えていたのですが、教育委員会の指示で、中学一年生となりました。これから私のドタバタが始まります。彼女の両親は中国残留孤児です。それぞれ別の養⽗⺟に育てられ、やがて〝年ごろ〟になった時、養⽗⺟は「お前は⽇本⼈だから⽇本⼈同⼠で結婚した方がよい」と⾔って、残留孤児同⼠で結婚させられたそうです。夫婦は5⼈の子をもうけました。(まだ一⼈っ子政策ではなかった頃) /// 続きは本誌ご参照
- 旧満洲での思い出56
- 名取敬和
- 昭和の初期は世界的な大不況であったと言う。我が冨士見村も国から経済更生村に指定されていた。村政に携わる意欲のある⻘年が、当時の国策として進めていた満蒙開拓移⺠に共鳴し、熱意を持って進めていた。父親も小さな部落ながら村政の末端を担わされていた。そんな関係からも責任を感じていたのか、また、純粋な父は趣旨に洗脳されたのか、当時はどこも⼦沢⼭、七〜⼋⼈は当たり前、我が家も⼋⼈兄弟、父は農家の次男坊、分家で農地も少ない。百姓だけでは生計が立たない。満州に行けば、十町歩もの土地がもらえる。その甘言に乗せられたか真意は聞いていないので解らない。 /// 続きは本誌ご参照
- 千島寛写真集『中国残留婦人―家族』(仮題、2022年7月発行予定、神奈川新聞社刊)58
- 千島寛
- 敗戦後、それぞれの理由で旧満州から故国日本に帰れなかった日本女性4人の写真集です。彼女ら4人は、1914年から1920年の間に生まれていますので1945年の敗戦時、皆25歳以上です。日本人として旧満州に渡り日本人の意識を持ち中国で生きた4人。いずれも日本語に不自由は無い。1995年から撮りはじめました。4人とも70歳を超えていました。日本女性が敵国だった中国で生きて行く基盤は「家族」と見えました。 /// 続きは本誌ご参照
- 創作曲集「命と平和」発行にあたって59
- 千秋昌弘
- 2022年1月、千秋昌弘作詞、森二三作曲「命と平和」創作曲集を発行することができました。私が真剣に詩(詞)を書き出したのはユーラスツアーズの旧満州(中国東北部)の戦跡巡りの2019年の旅でした。ハルピンから「方正」に向かうバスの中、逃避行体験の具体的な話を、藤後博己さんと渡邊潔さんにお聞きし、メモ帳に記録していきました。そして「方正」の日本人公墓の前に立った時、逃避行で死んでいった日本人4500体もの遺骨を、中国人の手によって埋葬された事実を知り、戦の中に「愛」を感じ、いたく心を打たれました。 /// 続きは本誌ご参照
- 他者への思いやりと慈しみ:三重県熊野市の山奥にある外人墓地について思う60
- 鶴亀彰
- 三重県南部の山奥に一つの外人墓地がある。その墓地がある場所は三重県熊野市紀和町板谷である。JR紀勢本線の熊野市駅から30キロ程奥に入った国道311号線に沿った山間地である。戦前ここには紀和鉱山と呼ばれた大きな銅の鉱山があり、一時は2万人を越える人口で賑わった。戦時中、そこでは300人の英国人捕虜が働いていた。マレー方面やシンガポールなどで日本軍の捕虜となり、強制労働のために送られてきていた。終戦までの二年間の銅採掘労働は辛く、苦しいものだったが、村での生活はそれほど酷いものではなかったようである。村人の多くは同じ坑夫やその家族であり、戦時中にも拘わらず、親しい交流もあったらしい。1945年8月15日に戦争は終わり、9月8日には英国人捕虜達は村人に見送られ、村を後にした。しかし、帰れず、この山奥の地の土になった16名の捕虜がいた。戦地での病気やその後の病気で命を落とした人々である。 /// 続きは本誌ご参照
- 映画『北京の恋』に重ねる思い:歴史・平和・友好とその果てに63
- 田村美佳
- 2022年3月某日。河津桜が満開を迎える頃、杭州の友人より微信(中国版メッセージアプリ)に一枚の写真が届いた。送られてきたのは「福井杭州友好公園」と刻まれた石碑の写真。私はその一枚の写真に思わず胸が熱くなり、心を震わせながら「韩宁,我们也已经是20年的好朋友了呀(韓寧、私たちももう20年来の友人ね)」と返していた。杭州と福井の友好都市関係が、私と中国を結びつけてくれたのだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本が戦前に中国大陸に作ったもう一つの傀儡政権・蒙古自治邦政府67
- 横井幸夫
- 長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がある。天皇、皇后(現、上皇上皇后両陛下)は2016年11月17日にここを訪問した。満州国に置かれた関東軍指令部は1936(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」を策定し、日本政府が国策として受け入れ、実施された。敗戦の1945年までに日本全国から約27万人が渡っていった。村を挙げて送り出す“分村(ぶんそん)”や、複数の村が送り出す“分郷(ぶんごう)”で開拓団を繰り出した。また14、15歳で組織された青少年義勇軍も8万人近く送出された。 /// 続きは本誌ご参照
- 故石原慎太郎氏の功罪70
- 横井幸夫
- 2022年2月1日に石原慎太郎氏が89歳で亡くなった。日本のテレビ、新聞に石原氏を賛美する報道が溢れた。極悪人でも亡くなった人間を批判しないのが日本の麗しき伝統だ。NHKは2月9日に石原氏賛美番組を放映した。番組の見出しは『石原慎太郎を悼む異彩の“太陽”~作家であり、政治家として~』と。フジテレビ(FNN)は岸田首相が石原氏宅を訪問したことを速報で報じた。見出しに『【速報】石原慎太郎氏きょう家族葬岸田首相が弔問「存在の大きさを痛感」』と。 /// 続きは本誌ご参照
- 人権意識が鈍い日本の大メディア:石原慎太郎追悼記事に思う71
- 大類善啓
- もう旧聞に属するが石原慎太郎(以下、石原と略す)の死去に関する大新聞の報道に関して、どうしても言及したいと思う。共同通信客員論説委員の岡田充さんから、石原追悼報道に関してBCCで短いメールが入り、そこには朝日新聞紙上で田原総一朗氏が「ぶれない石原」と、石原を評価するような談話に触れて、それに対する批判的なコメントが記されていた。「ぶれない政治家」という田原氏のコメントを見て、私が編集している一般社団法人日中科学技術文化センターの会報「きずな」を思い出した。当時の社団の理事⻑・凌星光(現在、顧問)と、当時都知事であった石原との対談記事である。掲載号は2009年夏号(7月刊)。5ページにわたる対談の二人の問答を紹介しよう。 /// 続きは本誌ご参照
- 本年のコラム:無責任な追悼74
- 斎藤美奈子
転載元:東京新聞(2022年2月9日付)
- 石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。「文明がもたらしたもっとも有害なものはババア」「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」、暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティーなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。 /// 続きは本誌ご参照
- 新聞を編む:言葉の作用 責任を痛感74
- 大場司(東京新聞編集局長)
転載元:東京新聞(2022年2月13日付)
- 1日に亡くなった石原慎太郎元東京都知事の訃報について、読者から批判がたくさん寄せられています。紙面の扱い、足跡や人物像の肯定的な報じ方への批判のほか、とりわけ氏の差別発言の報じ方に厳しい指摘が相次いでいます。 /// 続きは本誌ご参照
- 「石原節」メディアの責任重い(ほか)75
- 戒能民江(お茶の水女子大名誉教授)ほか
転載元:東京新聞(2022年2月15日付)
- 石原氏が2001年、週刊誌の記事で「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」などと述べた「ババア発言」をした際、損害賠償や謝罪広告を求める訴訟の原告に加わった。女性への暴力を研究する者として、石原発言を暴力そのものだと感じたからだ。放置すれば、なかったことにされてしまう。社会への発信が大事だとの思いもあった。 /// 続きは本誌ご参照
- こちら特報部:ロシアへの信頼 裏切られた 避難の子「死にたくない」…あれは私76
- 大杉はるか/中山岳(東京新聞)
転載元:東京新聞(2022年3月2日付)
- ロシアのウクライナ侵攻に、日本の戦争体験者らが声を上げている。空襲や市街戦、避難民の姿に、約80年前に感じた苦しみが重なるという。平和への願いもむなしく、繰り返される戦争。怒りと悲しみが広がっている。 /// 続きは本誌ご参照
- こちら特報部:反戦デモの意義 ⺠衆の意思 戦争終結の力に78
- 山田祐一郎/中山岳(東京新聞)
転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
- ウクライナ侵攻に対し、ロシア国内でも反戦を求めるデモが拡大。侵攻開始の2月24日以降、治安当局に拘束された人は1万4千人を超えた。厳しい弾圧にも負けず、反戦を表明するロシア市民への称賛と連帯は世界各国に広まる。普段はデモを毛嫌いするような日本の保守系政治家らが、都合よくこうした反戦デモを称賛しているのは鼻白むが、とはいえ、反戦で世界が一致することは、事態の打開につながる可能性がある、反戦でもの意義を考えた。 /// 続きは本誌ご参照
- こちら特報部:元ウクライナ抑留者 反戦 次世代に伝えたい80
- 宮畑譲(東京新聞)
転載元:東京新聞(2022年3月27日付)
- ロシアのウクライナ侵攻による惨状をみて、心を痛めている戦争体験者がいる。旧ソ連時代に、現在のウクライナ・ザポロジエで約2年間抑留された近田明良さん(96)=東京都福生市=。「ウクライナの人がどんなにつらく、腹立たしい思いをしているかと考えると涙が出てくる。もっと声を大にして戦争反対を言わなくては」と、一刻も早い終結を願っている。 /// 続きは本誌ご参照
- 非軍事の努力で脅威除け82
- 高橋哲哉(東京大学名誉教授)
転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
- ロシア軍のウクライナ侵攻は、侵略戦争とはどんなものかをまざまざと見せつけている。一刻も早い停戦とロシア軍撤退への道筋をつけることが望まれるが、ここでは日本国内の受け止め方について私見を述べたい。 /// 続きは本誌ご参照
- ロシアは侵略直ちに停止を83
- 田中優子(法政大学名誉教授・前総長)/古館寛治(俳優)/田中美穂(核政策を知りたい広島若者有権者の会共同代表)
転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年3月27日付)
- ロシアによるウクライナへのあからさまな侵略に、抗議の声が世界中に広がっています。 /// 続きは本誌ご参照
- ウクライナの同報救う:高麗人 国超え連帯84
- 相坂穣(東京新聞)
転載元:東京新聞(2022年4月7日付夕刊)
- ロシアの侵攻でウクライナから逃れた避難民が400万人を超えるなか、朝鮮半島をルーツとする「高麗人」系のウクライナ人を支援するため、韓国で暮らす高麗人団体が募金活動などに奔走している。支援者の国籍はロシアや中央アジア各国などさまざまだが、「われわれは同胞だ」との思いが活動を支えている。 /// 続きは本誌ご参照
- バレンボイム「撃ち合いやめ対話を」85
- 吉田純子(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2022年3月31日付夕刊)
- 指揮者のダニエル・バレンボイムがベルリンで6日、。自身が音楽総監督を務めるベルリン国立歌劇場管弦楽団を率いてウクライナ支援の演奏会に登壇し、ウクライナ人との連帯の意思を表明する一方で、ロシア人やロシアの芸術を排除する昨今の動きを「サイアクの連想を呼び起こす」として牽制した。 /// 続きは本誌ご参照
- 満州から逃避行 光景を思い出す85
- 宮岸清衛
転載元:北国新聞(2022年3月17日付)
- ロシアがウクライナに侵攻し、ロシア軍が女性、子供、老人の避難民を追い詰めている様子をテレビで見て、77年前に満州から逃避行した光景をいやでも思い出します。 /// 続きは本誌ご参照
- 満蒙開拓団 体験語り続ける:中国人の不幸の上に築かれた幸せな生活86
- 北村隆志(しんぶん赤旗記者)
転載元:しんぶん赤旗日曜版(2021年12月5日付)
- かつて国策として日本から中国東北部に送り出された農業移民団「満蒙開拓団」。新潟県阿賀野市の須田一彦さん(85)はその一員でした。「開拓団は被害者であるとともに、『侵略』の担い手でした」と、語り部活動では必ず加害の歴史を強調しています。自宅で話を聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
- 大阪空襲から76年 やっと家族に居場所:慰霊碑に名 刻む87
- 森田真奈子
転載元:東京新聞(2021年12月16日付夕刊)
- 1945年6月の大阪空襲で、在日朝鮮人2世の鄭末鮮さん(88)=滋賀県野洲市=は母と兄、妹、弟を亡くした。遺品や墓もないまま76年が過ぎた。今夏、4人の名前がJR新大阪駅近くの崇禅寺(大阪市東淀川区)の慰霊碑に、ようやく刻まれた。鄭さんは「碑に名前を刻んだだけとは違う。やっと、4人の居場所をつくれた」と涙ぐんだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承1:両親の愛 はがきの中に88
- 井上靖史
転載元:東京新聞(2022年3月16日付)
- 「優しかったお父さん、お母さん。どうして私一人を置いて死んでしまったのでしょうか」両親ときょうだい二人を東京大空襲で亡くした埼玉県久喜市の元教諭、臺スミ子さん(86)は、未公開のままになっている証言ビデオテープの中で声を詰まらせていた。二月、取材に応じた臺さんの話は一枚のはがきから始まった。 /// 続きは本誌ご参照
- 封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承2:家族も知らない 父の記憶89
- 井上靖史
転載元:東京新聞(2022年3月17日付)
- 「家族も聞いたことがない話ばかりだ」。東京都西東京市の農家、内田繁勝さん(67)は父、亀三郎さんの生々しい証言に衝撃を受けた。2007年、79歳で亡くなった父は1990年代後半、都の依頼で戦争体験の収録に応じた。未公開の映像を見せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
- 封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承3:「破壊的な史実」世界に発信90
- 井上靖史
転載元:東京新聞(2022年3月19日付)
- 「これだけの破壊的なできごとなのに、記憶を伝える公立施設がほとんどないのはどうしてなのか」。オーストラリア出身の映画監督エイドリアン・フランシスさん(47)は言う。昨夏、東京大空襲の体験者の証言を集めたドキュメンタリーを完成させた。母国の映画祭で評判となり、日本で公開してくれる配給会社を探している。 /// 続きは本誌ご参照
- 封印されたビデオ~東京大空襲 記憶の継承4:「都祈念館」整備し展示を91
- 井上靖史
転載元:東京新聞(2022年3月20日付)
- 東京大空襲の資料を展示して後世に伝える「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)が開館から20周年を迎えた。同センターは、300人以上の空襲被害者らの証言を収録したビデオテープや遺品などを公開するはずだった「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が進まないことに危機感を抱いた有志が、募金を集めて開設した。戦争資料の活用のあり方について吉田裕館長(67)=一橋大名誉教授に聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
- 空襲被害者救済を:東京大空襲77年 犠牲者の名前読み上げる集い92
- 本吉真希(しんぶん赤旗記者)
転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年3月27日付)
- 1945年3月10日の東京大空襲から今年で77年。犠牲者の名前を読み上げ、心に刻む集いが民営の「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)で開かれました(9日)。発起-河合節子さん(83)の思いはー。 /// 続きは本誌ご参照
- よむひと:東京大空襲の戦後史(栗原俊雄著)93
- 米田綱路(ジャーナリスト)
転載元:東京新聞(2022年3月5日付)
- 1945年3月10日未明の東京大空襲は、瞬時にして約10万人の命を奪った。犠牲の大半は城東の下町に住む社会的弱者だ。遺体が多すぎて荼毘に付せず、多くは仮埋葬された。隅田川に架かる言問橋のたもとに建つ東京大空襲戦災犠牲者追悼碑は、そんな場所を伝える一例である。 /// 続きは本誌ご参照
- 読書:731部隊全史:石井機関と軍学官産共同体(常石敬一著)94
- 山田朗(明治大学教授)
転載元:しんぶん赤旗(2022年3月20日付)
- 本書は、731部隊研究のパイオニアであり第一人者である著者による40年余の研究の集大成の書である。731部隊について現在、どこまで解明され、何が分からないのか、軍事に従属した研究が何をもたらすのか、戦後米軍がつかんだ情報はどれほどのものだったのか、本書を読めばすべてが分かる。著者は、本書を執筆した動機として防衛省が2015年に科学研究を補助する制度を作り、大学などの研究者を軍事研究に誘導し始めたことを挙げている。研究の自由と公開の自由を制限する軍事研究が行き着いた帰結が731部隊であった。 /// 続きは本誌ご参照
- 遅すぎた戦後処理の話:傘になり 薪になった人の覚書95
- 鳥居正孝(村上市肴町)
転載元:サンデーいわふね(2022年3月6日付 ※新潟県村上市地域新聞)
- 1995年の2月、村上氏羽黒口の鈴木進さん=当時81歳=に中国黒竜江省甘南県宝山村から手紙が届きました。 /// 続きは本誌ご参照
- 樺太の記憶 継ぐために:引き揚げ75年 証言など集めて映像制作96
- 東京新聞
転載元:東京新聞(2021年12月6日付)
- 太平洋戦争の終戦時、約40万人の邦人が居住していた南樺太(現ロシア・サハリン南部)からの集団引き揚げが始まって五日で75年。樺太の歴史伝承を続けてきた「全国樺太連盟」が3月に解散し、記憶の風化への懸念が強まる中、北海道稚内市の大学生が引き揚げ者の証言や手記などを基に映像を制作し、後世に残そうと奮闘している。 /// 続きは本誌ご参照
- 戦争乗り越え魂の出合いを高らかに:10周年迎えた「再生の大地」合唱団97
- 大門高子
転載元:日中友好新聞(2022年1月15日付)
- 日中友好協会東京都連合会主催で、ジェームス三木さんとの「講演と音楽の夕べ」に取り組んで早10年。日本人元戦犯の人間回復を歌う「再生の大地合唱団」は昨年11月30日、東京都武蔵小金井の宮地楽器ホールで10周年の記念演奏会を開きました。 /// 続きは本誌ご参照
- 本音のコラム:ロシア人排除の是非を問う98
- 師岡カリーマ(文筆家)
転載元:東京新聞(2022年3月12日付)
- 世界一忙しいとも言われるロシア人指揮者ゲルギエフが、欧州各地の楽団からほぼ総スカンを食らっている。プーチン大統領のウクライナ侵攻を非難しなかったためだがもともと大統領と親しく公的に支援してきた超大御所だけに、この状況で文句は言えまい。でも煽りを受けているのが政治に近い大指揮者だけではなく、キャリア半ばのロシア人演奏家にも影響が及んでいると聞けば、黙っていられない。コンクールへの参加が取り消された若手もいるという。 /// 続きは本誌ご参照
- 取材考記:国交正常化50年 残留孤児ら養父母の公墓も行けず 往来制限 日中のすれ違い気がかり98
- 平井良和(朝日新聞国際報道部・前瀋陽支局長)
転載元:朝日新聞(2022年3月16日付夕刊)
- 中国黒竜江省ハルビンの市街地から約200キロ東の方正県に、直径が約3メートルのドーム状の墓がある。中国残留日本人孤児を育てた中国人養父母らの公墓だ。戦後も7年となり、中国で私が会えた養父母はいずれも世を去った。昨年、88歳で亡くなった李さんは「公墓で眠りたい」と遺言した。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国人監督 残留孤児テーマに映画:愛を根底に描く日中交流 「再会の奈良」来月公開99
- 新貝憲弘
転載元:東京新聞(2022年1月19日付)
- 中国残留孤児をテーマに日中交流を描いた映画「再会の奈良」が、2月4日からシネスイッチ銀座(東京)や伏見ミリオン座(名古屋)など全国で順次公開される。今年九月の日中国交正常化50年を前に、ポンフェイ(鵬飛)監督は「戦争の恨みはいつか消えるが、愛情はいつまでも残ることを感じてほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
- ひと:京都で在日コリアンの歴史を伝える 金秀煥さん(40)100
- 吉本博美
転載元:しんぶん赤旗(2022年3月19日付)
- 拠点は京都府宇治市のウトロ地区。第2次世界大戦中、軍事飛行場の建設のために集められた朝鮮人が、終戦後も第二の故郷として助け合いながら根を下ろした地です。南山城同胞生活相談センターの代表として、住民支援やハングル講座、地域での文化交流に取り組んでいます。 /// 続きは本誌ご参照
- この人:「アイヌ通史」を邦訳した英国人研究者 マーク・ウィンチェスターさん(42)100
- 団奏帆
転載元:東京新聞(2022年1月7日付)
- 「研究するならとことん向き合い、多くの当事者が読める言語で」。国立アイヌ民族博物館に勤務する傍ら、恩師のリチャード・シドル氏の著書の邦訳「アイヌ通史」を出版した。 /// 続きは本誌ご参照
- 流転を生きる:国籍を超え 自分は自分101
- 志田勉
転載元:東京新聞(2022年3月22日付夕刊)
- 陳天璽(50)は1971年8月、中国出身の両親の6番目の子として横浜・中華街で生を受けた。両親は喫茶店と菓子店を営んでいたが、間もなく一家は国際政治の変革の波に翻弄される。翌年9月の日中国交正常化が契機だった。 /// 続きは本誌ご参照
- こちら特報部:最晩年 北の大地へ アイヌ力 再興を102
- 木原育子
転載元:東京新聞(2021年11月28日付)
- 東京を拠点に活動した、アイヌ民族の詩人で古布絵作家の宇梶静江さん(88)=埼玉県白岡市=が24日、北海道白老町に移住した。半世紀前の1973年、東京ウタリ(同胞)会を設立し、アイヌ民族の権利回復運動の中核を担ってきた女性だ。なぜ、人生の最晩年を北の大地で暮らす決断をしたのか。 民族としての存在さえも不可視化され、深い痛みを抱えて生きてきたアイヌが声を上げ始めた。 /// 続きは本誌ご参照
- 戦争の記憶は捨てられない104
- 五木寛之(作家)
転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年2月20日付)
- 作家の五木寛之さんが新著『捨てない生き方』を出しました。増えていくモノとの向き合い方、心豊かに「成熟期」を生きるヒントとは―。 /// 続きは本誌ご参照
- この人に聞きたい:お客さんが言わせてくれる105
- 松本ヒロさん(芸人)
転載元:しんぶん赤旗日曜版(2022年2月20日付)
- 〈コロナ禍で、ライブの手ごたえを再認識しました〉新型コロナウイルスの感染拡大で激減した仕事が、ようやく昨年は戻ってきました。 /// 続きは本誌ご参照
- こちら特報部:だから私は… おかしな政治 物申す 日本城タクシー社長 坂本篤紀(56)106
- 中沢佳子
転載元:東京新聞(2022年1月7日付)
- 「どう、もうかってはる?」のどかな日差しに包まれた大阪市住之江区のタクシー会社。休憩中にくつろぐ運転手たちに、坂本篤紀が声をかける。「ぼちぼちですわ」。漫才さながらの返しに、坂本は「そうか」と目を細める。 /// 続きは本誌ご参照
- 声を上げて デモのあとさき:民の熱意のバロメーター108
- 砂上麻子
転載元:東京新聞(2022年1月4日付)
- 「反原発のデモが盛り上がったのはよかったけど、もうちょっと短期決戦でやれればよかったな…」東京都・高円寺でリサイクルショップ「素人の乱5号店」オーナーの松本哉さん(47)は苦笑いに悔しさをにじませた。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国社会科学院と有澤廣巳文庫109
- 何方
- 有澤廣巳先生の一周忌に際して、その生前の中国友人は皆尊敬の心持をもって、中国人民、とくに中國學術界との旧い友人を懐かしんでいる。中日友好増進と両国学術交流促進のために先生が大きな意欲をもち、大いに頑張っておられたことは永遠に忘れられない。先生の深みのある学問、高尚な人格ならびにその卓越する貢献は不滅の灯火の如く、今後も輝いていくであろうし、後進の励ましにもなるであろう。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い111
- 方正友好交流の会
- 1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
- 報告/編集後記112
- 大類善啓
- まず、会員及び支持者の皆様、会費やカンパをお送りいただき、今号もこのよう刊行することができました。お陰様で会報を知る人たちも多く、今号にはロスアンゼルスに滞在する鶴⻲彰さんからメールが来て、本誌に寄稿していただくようにもなり、会の存在の広がりを実感しております。改めて寄稿していただいた方々、貴重な新聞記事など資料をお送りいただいた方々、皆さん、ありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
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