方正友好交流の会
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星火方正
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第32号(2021年5月発行) / 1冊20記事 を表示しています。

  第32号(2021年5月発行) 第32号(2021年5月発行)表紙

この人にしか語りえない喜びと悲しみ―引間政好さんの講演(対談)を聞いて1
滝永登
2020年7月26日、旧満州引き揚げ者の引間政好さんの講演(対談)を聞くという貴重な機会を得た。引間さんは、1941(昭和16)年、日米開戦の年に6歳で満州にわたり、1953(昭和28)年18歳で引き揚げるまで、少年期から青年期にさしかかる12年間を彼の地で過ごしたという。それがどんな時代であったかは、私たちは歴史の教科書で学ぶことはできる。しかし、教科書には決して書かれない一人ひとりのかけがえのない喜びと悲しみは、その人にしか語りえない。 /// 続きは本誌ご参照
とても貴重な会話と記録書でした―「方正へ そして方正を後にして」の引間政好さんの体験を読んで3
柳生じゅん子
この度、『「開拓団員」、引間政好さんの体験を聞く』に、とても胸を打たれました。1ページ目の「引間政好さんのプロフィール」から驚いて赤ペンを引きながら拝読しました。聞き手の大類善啓さんが「今日私がどこまで引間さんのお話を引き出せるか、語って頂けるか……いろいろな体験をお聞きしたいと思います」と始められ、目を引き付けられました。 /// 続きは本誌ご参照
ダリア5
柳生じゅん子
眼底に 炎のかたちして燃えていたもの あれは ダリアの花だったのか /// 続きは本誌ご参照
替え歌―「ラバウル小唄」6
柳生じゅん子
旧満洲からの引き揚げ時 葫蘆(ころ)島に辿り着いた時 一番に船に日の丸の旗がついているのを見つけて 父と母や多くの人達が泣いたという(敗戦後 政府が在外邦人の現地定着方針を決めた為棄民となり一年以上中国に取り残されていたのだ) /// 続きは本誌ご参照
ふたつの苗字8
今村寛明
私には苗字がふたつあります。「今村」と「董」というこのふたつです。「今村」という苗字は私が日本人であることを表す苗字です。日本で生まれて、日本で暮らしている私は当然ながら「今村」と名乗って生活しています。戸籍にも「今村」という苗字で登録されています。しかし、もうひとつの苗字、「董」に関しては滅多に使うことはありません。この苗字は私に中国の血が入っていることを表すからです。 /// 続きは本誌ご参照
国境の街、黒河からの逃避行―中国残留孤児にならなかったボク10
宮岸清衛
75年前(1946)、8月15日の夜、私は葫芦島港(旧満州)のLSTリバティ船の甲板で父と母の3人で空を眺めて、新京(現長春)で死んだ弟妹3人を流れ星に祈っていた。76年前の8月9日。国境の街、黒河(アムール河畔、ソ連と国境)を離脱し北安に逃れ、此処で終戦を迎えて、新京で極寒の冬を生きのびた。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留日本人の孫たちと学んできた「満州」・戦争13
飯島春光
「おい、中国人」「日本語もできないくせに何で日本にいるんだ」「日本人をなめるんじゃねえぞ」「中国人、中国へ帰れ」―2000年4月、長野市篠ノ井西中学校。中国に由来する生徒が大勢いるということ、日本語が不自由な生徒のための日本語指導教室があるということを全く知らずに私は赴任しました。91年に交通事故に遭って5年間の療養生活で社会から隔絶され、さらに生活圏が違ったため、学区内の団地に90年代後半から次々に中国から帰国した人々とその家族が、大勢居住しているということも全く知りませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
今、振り返ってみると23
大島満吉
中国に行くと大きな都市には必ずと言ってよいほど戦争(解放)記念館がある。私は長春・瀋陽・ウランホトでの印象が特に強い。ウランホトとは「烏蘭浩特」と書き、内蒙古自治区にある元興安街のことだ。戦争(解放)記念館とは、後世の人々に「忘れまじ」と一つの教育基地として全国展開している施設だ。よって、中国国民は何らかの形で戦争を追体験し、勉強している。 /// 続きは本誌ご参照
王希奇「一九四六」高知展を開催するにあたって29
﨑山ひろみ
中国人歴史画家・王希奇氏が、中国葫蘆島港から引き揚げる多くの日本人を描いた大作「一九四六」を、今年2021年11月28日から12月5日まで高知市で絵画作品展として開催することになりました。2017年東京展の後、石子順氏(漫画、中国映画などの評論家)より「一九四六」の図録(縦30㎝、横2m)が送られてきました。実物の10分の1ということですが、蛇腹に折りたたまれた大きな図録を見て衝撃を受け、なぜ中国の方が、このような日本人引き揚げの絵を描かれたのかと不思議でした。 /// 続きは本誌ご参照
満州の歴史を語り継ぐ高知の会について35
大野正夫(高知大学名誉教授)
筆者は、6歳になる前に奉天より引き揚げた。父親が満鉄に勤めていたので、錦州市の社宅で出生し1945年の終戦を迎えた。錦州駅は交通要所で内戦の激戦地になるとの情報で、奉天の満州社宅に同居・避難して、社宅内で翌年8月末まで過ぎした。満州の生活の記憶は短い年月であったが、私の人生には大きな影響を与えてきたように思う。 /// 続きは本誌ご参照
東日本大震災からの10年間を振り返って37
堀泰雄
被災地を頻繁に訪問するようになった2つの理由2011年3月に東日本大震災が起こってから10年が経った。この間、私は100回以上、東北の被災地を訪問した。何でもないただの老人が、こんなに多く東北を訪問したのには、大きく2つの理由があった。 /// 続きは本誌ご参照
パンデミックの先へ―これからの世界と日中関係にかける私の思い42
木村知義
「なにもかも、とにかく反中、嫌中ばかり、一体日本はどうなっているんだろう。72年の日中国交正常化の頃日本中にあふれた日中友好にかけた熱い感情はどこに消えてしまったのだろうか。尖閣、尖閣と言うが、かつて両国の首脳間で、それぞれに言い分があって言い出せば対立するばかりなので未来の世代に託そうということにしたことを、日本人は忘れてしまったのだろうか…」学生時代からの、すなわち50年来の友人から久しぶりにかかってきた電話でのことだ。「まったくその通りだね」とは返したが、継ぐべき言葉もなく、ただただ、本当にひどい状況になってきたなとお互いに「嘆く」ばかり。日本における「反中国」感情の蔓延は尋常なものではない。 /// 続きは本誌ご参照
『エスペラント―分断を繋ぐHOMARANISMO』(批評社)を上梓して48
大類善啓
2013年5月に発行した「星火方正」16号に「国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義へ―」という原稿を書いた。「人類人主義」とは、世界共通語エスペラントを創造したザメンホフの思想を表した言葉である。エスペラントではHOMARANISMOと言う。Homaro(ホマーロ)とは人類、ano(アーノ)は一員、それにismo(主義)をつけてHOMARANISMO(ホマラニスモ)、人類人主義とは、国や民族を超えて、「我々は人類の一員である」という思想である。近年、この人類人主義という思想への思いが強かったこともあり、自ら編集している本誌の巻頭にこの原稿を持ってきた。自分で言うのも気が引けるが、拙文は非常に好評だった。「とても感動した」というメールをくれたのは、本号に「この人にしか語りえない喜びと悲しみ」を書いてくれた旧友の滝永登さんだった。滝永さんはプロフィールにあるように、学生時代にエスペラントを学んでいた。 /// 続きは本誌ご参照
冷静さと考える力 養って51
澤地久枝     転載元:朝日新聞(2021年3月31日付朝刊)
私は90歳になりました。新型コロナウイルス感染症のニュースを見ていて、若い人に伝えたいことがあります。日本が第2次世界大戦に負けた1945年8月15日、中国東北部(満州)で女学校の3年生だった私は、学徒動員で陸軍病院で働かされていました。44年から授業はなくなり、1か月間の開拓団への住み込み奉仕など「お国」のために働いていました。 /// 続きは本誌ご参照
共生阻む言葉の壁 中国残留孤児ら 孤立する晩年52
木原育子     転載元:東京新聞(2021年4月4日付朝刊)
中国残留孤児の肉親を捜す本格的調査を1981年に国が初めて四十年。孤児の平均年齢は八十歳近くになった。だが、中国語に対応できる高齢者施設は依然少なく、文化や習慣の違いから孤立して晩年を過ごす人は少なくない。日本で生きるということはどういうことか。「共に生きる」ことの意味を考えた。 /// 続きは本誌ご参照
王林起さんの赤とんぼ54
平井良和     転載元:朝日新聞(2021年1月16日付朝刊)
昨年の年始に国際面で掲載した連載「私は○○人」で紹介した王林起さんが、昨年11月末、肺がんで85年の生涯を閉じた。 /// 続きは本誌ご参照
書評:なかにし礼・著『夜の歌(上・下)』55
丸山至     転載元:日中友好新聞(2021年3月15日付)
なかにし礼は著名な作詞家であり作家。昨年12月に82歳で亡くなりました。『夜の歌』は、ガン治療を行いながら「自分の人生を集大成した自伝的な小説」とあり、幼少期の「満州」からの引き揚げ体験と帰国後の作詞家になってからのことなどが交互に語られます。戦争が終わってからのハルビンでの生活と引き揚げの描写は想像を絶します。 /// 続きは本誌ご参照
書評:フランク・ディケーター・著/中川治子・訳『毛沢東の大飢饉』56
渡辺襄     転載元:日中友好新聞(2021年4月1日付)
本書は、1958年から62年に起きた中国の大飢饉をテーマとするフランク・ディケーターの著書を全訳した文庫本である。役者は中川治子。私が宮城県連合会に事務局員として就職してから、今日もお付き合いの続いている中国残留孤児だったTさんに大飢饉当時の実体験を聞いた記憶がよみがえった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い57
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記58
大類善啓
4月10日の土曜日に事務局長の森一彦が原稿をチェックするために事務所に来てくれた。午前中の仕事を終え、昼飯を食べ終えて話した時だ。「大類さん、よくやっていますね」という言葉が彼から出た。文面から見れば、誉め言葉とも言えるかもしれないし、「お疲れさま」とも言えそうだが、もしかしたら、私の疲れた顔を見て、「もうこのあたりでこの会報も終わりにしてもいい時期じゃないですか」とも取れそうだ。 /// 続きは本誌ご参照
 
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