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第31号(2020年12月発行) / 1冊 の 38記事 を表示しています。
- 「開拓団員」、引間政好さんの体験を聞く―方正へそして方正を後にして…1
- 引間政好
- 本稿は2020年7月26日(日)、方正友好交流の会・第16回総会後に行われた「引間さんの体験を聞く」会での記録です。当日司会をした森一彦(本会・事務局長)がテープを起こした記録を基に大類が校正し、また引間さん及び引間さんを方正の会に紹介された新宅久夫さん、引間さんの小学生時代の同級生であり、同じ「開拓民」の一員の高橋章さんらの修正を受けました。文中の注は、各位の意見を取り入れましたが、とりわけ名前を記しませんでした。改めて各位に感謝します。しかしなお、誤りがあるかもしれません。ご指摘をいただければと思います。〔聞き手:大類善啓(方正友好交流の会理事長、本誌編集人)〕 /// 続きは本誌ご参照
- 「今が最高に幸せだ!」―後日、改めて引間さんに会う17
- 大類善啓
- 方正の会の後、引間さんから『我的故郷』(私の故郷の意味)という自分で書かれた小冊子が送られてきた。その後、自宅がある我孫子市の天王台に行き、原稿の確認を含めて補足取材を行ったのでご報告したい。 /// 続きは本誌ご参照
- 初めての肉声―驚き、怒り、未来への危惧18
- 星野郁夫
- 私は、コロナ禍の中で、満洲から帰られた人の肉声を初めて聞いた。7月26日、「方正の会」が企画した「旧満州での体験を聞く会」に参加してのことである。昨年は、丹羽宇一郎さんの貴重なご講演をお聞きした。今年は、満洲から生命からがら逃げ帰った「引間政好」さんの肉声をお聞きし、交流するというものであった。 /// 続きは本誌ご参照
- 高橋章さんとの出会い21
- 大類善啓
- 2020年7月26日(日)の「方正の会」総会と、その後の「引間政好さんの体験を聞く会」には、コロナ禍の中、30人を超える人たちが集まってくれた、その中に、高橋章さんがいらした。初対面である。高橋さんは引間さんとは旧満洲の小学時代の同級生だという。また、金丸千尋さんとも知り合いでもあり、また金丸夫人のキヌ子さんとは小学生時代の同窓生だと自己紹介された。 /// 続きは本誌ご参照
- 満蒙開拓団 忘れてはならぬ記憶23
- 大久保真紀(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2020年10月13日付)
- 72年前の夏のことは、いまでもはっきり覚えている。満蒙開拓団として入植した中国東北部(旧満州)で。現地の中国人に襲われ、命からがら逃げ惑った。埼玉県秩父市の高橋章さん(85)は、自分たち開拓団は被害者だが、加害者でもあったことを忘れてはならないと思う。 /// 続きは本誌ご参照
- 元中川村開拓団の慰霊碑は何故二つあるのか24
- 高橋章
- 元中川村開拓団犠牲者の慰霊碑が二つもある訳は、元団長堀口辰三郎氏の個人的な自己弁護にあります。多くの開拓団を犠牲にした自分の行為を隠蔽し、正当化するため、札所十三番「慈眼寺」に二つ目の慰霊塔を建立したのだ。敗戦時に多くの犠牲者を出した原因のすべてを、堀口団長個人の責任に帰するつもりは毛頭ない。だが団長には、団員の生命の安全を守り団員を無事に避難させ、祖国へ連れて帰るという考えが少しもみられなかった。 /// 続きは本誌ご参照
- 残留孤児「最後の養母」死去28
- 川瀬大輔(読売新聞・瀋陽)
転載元:読売新聞(2020年11月1日付)
- 終戦後に中国東北部(旧満州)に取り残された中国残留孤児を育てた養父母が暮らす中国吉林省長春のアパート「中日友好楼」で、最後の養父母だった崔志栄さんが30日、老衰で死去した。98歳だった。戦後75年の今年、戦争の悲劇を知る「生き証人」がまた一人、亡くなった。 /// 続きは本誌ご参照
- 戦後の中国で、流転8年の私の軌跡29
- 新宅久夫
- 今年が敗戦後75年になり、記憶を風化させまいと回顧する事にしました。私は昭和10年(1935年)長春(当時の新京)で生まれ9年間を過ごし、父の都合でハルビンに引っ越し、2年後に日本の敗戦を哈爾浜市(ハルビン市)で迎えました。 /// 続きは本誌ご参照
- 満蒙開拓と私33
- 加藤まり子
- 私が初めて方正の日本人のお墓について知ったのはたぶん1981年です。当時勤めていた中国専業旅行社の対外連絡室という部署に入った国際電話で、戦後現地で亡くなった開拓団の方のためのお墓について情報が入りました。経営トップは対外連絡室長に「作るための寄付をしてほしいのか墓参団を組織して現地に外貨を落として欲しいのか確認するように」と指示しました。 /// 続きは本誌ご参照
- 幼少期の錦州・奉天・引揚げと故郷再訪35
- 大野正夫
- 私は昭和15(1940)年11月29日、満州・錦州の満鉄(南満州鉄道)社宅で生まれた。父が29歳、母は26歳の時であった。二人の故郷は箱根の麓の小田原である。私の生まれ育ったところを見たく、2009年に中国留学生、高知大学大学院で指導した朱文栄氏と二人で、8月15日、終戦日に錦州を再訪した。終戦日の体験をしたかった。両親から終戦の日は快晴で暑かったと聞かされて育った。私の満州の記憶は、その頃から始まる。5歳になる前であつた。 /// 続きは本誌ご参照
- 国内各地の「満蒙開拓慰霊碑」の保存を41
- 寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
- 「満蒙開拓」。戦前・中、旧満州に全国各地から約27万人もの満蒙開拓団(満州開拓団)と称した農業移民等が渡満し、その中から凡そ8万人もの犠牲者を出した悲惨な歴史であり、「被害」と「加害」の混在する歴史でもある。その多くの犠牲を悼むべく、戦後、全国各地に多くの満蒙開拓に関わる慰霊碑、記念碑等が建立された。 /// 続きは本誌ご参照
- 「満蒙開拓」慰霊碑 都内に点在、地図作成―元高校教員、異郷での悲劇伝え48
- 栗原俊雄(毎日新聞)
転載元:毎日新聞(2020年6月4日付)
- 大日本帝国時代、多数の日本人が植民地だった旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦により異郷の地で倒れた。その悲劇を伝える碑が東京都内各地にある。それらを紹介する地図「都内にある『満蒙開拓』慰霊碑」を、元高校教員の竹内良男さん(71)が制作した。 /// 続きは本誌ご参照
- 「満州」移民関係の2冊の本49
- 先﨑千尋
- 最近、旧「満州」移民関係の本を2冊読んだ。齊藤俊江『長野県飯田下伊那の満州移民関係資料目録』(不二出版、2020)と趙彦民『「満州移民」の歴史と記憶』(明石書店、2016)だ。齊藤さんの本は、旧知の元朝日新聞記者・田中洋一さんから毎月メールで届く「歩く見る聞く62」で教えてもらった。趙さんの本は、茨城大学図書館の新購入本のコーナーで見つけ、借りてきた。 /// 続きは本誌ご参照
- PTSDの日本兵と家族の交流について54
- 黒井秋夫
- 「日本兵のPTSDの存在」を課題に掲げる活動組織は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が日本最初で唯一であり、その資料館も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」しかないと言う事実がこの問題の困難さ、底深さを物語っています。私の父・黒井慶次郎(1912~1989)は20歳で徴兵され34歳で復員するまで2回従軍しました(1932~1934、1941~1946)。彼は戦争体験含めて、一日中口を開かず、笑顔のない暗い人間でした。復員後の彼は定職を持たず。出身地山形県近在の工事現場の日雇い労働者で暮らしは貧乏でした。家族に降りかかる問題は、いつも妻や私・黒井秋夫より8歳年長の長男(1941~2017)に押し付け、無責任で、私は中学、高校と進むにしたがい「父のような男には絶対なるまい」と思うようなり、尊敬の念を持つことも終生ありませんでした。情愛が通いあう親子関係もありませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75周年『今に想う』出版に際して58
- 大島満吉
- 私達の興安街命日会は、旧満州国の興安街の避難民が目的地である葛根廟を目前に、ソ連軍の戦車隊に虐殺され、一割しか生き残れなかった事件の犠牲者を慰霊する団体です。事件は八月十四日午前十一時四十分に起きました。その時刻に合わせて慰霊祭が毎年行われており、六十年をこえる歴史を持っています。場所は目黒区にある天恩山五百羅漢寺を菩提寺としており、毎年三十名前後の集まりでした。それが近年は参加者が増えて五十名を超えるのが普通になりました。事件の生還者が少ない上に、遺族も高齢化して集まりにくい状況なのに参加者が増える数少ない団体なのです。 /// 続きは本誌ご参照
- 井出孫六先生の御逝去を悼む62
- 寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
- 去る10月8日、直木賞作家でもある井出孫六先生が御逝去されました。享年89歳、私ども満蒙開拓平和記念館も、また私個人としても大変お世話になっただけに大変残念な思いでいっぱいです。井出先生には当記念館の設立準備会(平成18年8月発足)が立ち上がってしばらくした頃から準備会の名誉顧問になって頂いて以降、大変お世話になり、記念館で発行している「図録」の中にも一文を寄せて頂いています。また「方正友好交流の会」の総会後の記念講演でもお話いただいたこともある等、大変お世話になった先生でもありました。 /// 続きは本誌ご参照
- 金丸千尋さんを偲ぶ―日中友好文化交流に一生を捧げた人64
- 新宅久夫
- 金丸千尋さんは、去る2020年8月14日に惜しまれて逝去されました。1929年生まれ、享年91でした。山梨県に生まれ、1943年旧満鉄奉天の技術員養成所を終了し、1945年満鉄チチハル検車区に配属され、8月に敗戦を迎えました。1946年4月八路軍(解放軍)三師警衛連に入隊後、西満軍区軍工部に転出したが、怪我の為チチハル市人民政府に転属、日本僑民協会の仕事に従事されました。1952年~1958年北京・武漢の行政学院にて学習、1958年日本に帰国しました。 /// 続きは本誌ご参照
- 金丸千尋―中国・東北との友好に駆けた男65
- 大類善啓
転載元:「風雪に耐えた『中国の日本人公墓』ハルビン市方正県物語」2003年4月、東洋医学舎刊
- 互いに信頼し合うこと、そして、何をしてあげたか、何をしてもらったか――考えるだけではなく、行動すること。戦後、解放戦争にも参加した金丸千尋の教訓である。そして中国東北の広野を駆けめぐって日中友好を具現した優しくたくましい男の記録である。 /// 続きは本誌ご参照
- 中国人の寛大さと慈愛心69
- 金丸千尋
転載元:『星火方正』5号(2007年12月)
- 中国で唯一の日本人を祀る「方正地区日本人公墓」が1963年、中国によって建立された。この「公墓」は、『侵略戦争に責任がある一握りの軍国主義者と日本の国民大衆とは別であり、日本国民は戦争の犠牲者である』という中国政府の理念と政策が根底にあったことはいうまでもない。 /// 続きは本誌ご参照
- 一篇の詩が内包する歴史71
- 柳生じゅん子
- 弓田弓子さんの詩集『大連』と出会った時のこと。弓田さんが大連(現在の中華人民共和国大旅市)におられたのは、昭和十四年初夏から昭和二十二年一月まで、その零歳から八歳までの記憶を辿り、作品にしたとあとがきにある。いずれの作品も書かれるべき詩として描かれているが、とくに「南京豆」をあげてみたい。 /// 続きは本誌ご参照
- 黄砂現象74
- 柳生じゅん子
- 窓を閉め切ってとじこもる人がいて かぶさってくる空に苦く顔をしかめる人もいる 黄砂現象の日 風がじわじわと横に這い 景色を薄茶褐色に封鎖し始めると 私の中のざらつく記憶がゆすぶられる /// 続きは本誌ご参照
- 忘れ去られた、あの日から、75
- 千秋昌弘
- あの日 8月9日 満洲国境越え ソ連軍が攻めてきた /// 続きは本誌ご参照
- ゆりっく&るりっく76
- 渡部通惠
- 2001年9月11日、はじめてアフガニスタンという国があることを知り、2002年4月25日に「アフガン寺子屋プロジェクトinしまね」を立ち上げました。ある日突然頭の上から、あなたたちはテロリストだから成敗してくれると爆弾が降ってきたのです。何も知らない国民は、いったい何事だと思ったことでしょう。まして、子どもたちは。これまで30年に及ぶ戦争状態(内戦)の中で学校に行けない環境が続いていて、その上でのアメリカからの爆撃です。青空学級で学んでいる子どもたちに、校舎を建設する(形として残るものにする)、募金は1円たりとも建設資金以外には使わないと約束として、私たちは18年間活動しています。活動費は、世話役10人あまりの年会費1万円で賄っております。 /// 続きは本誌ご参照
- 未完ドキュメンタリー映画『10日間だけの祖国』のこと78
- 吉川雄作(本会会員)
- この写真の女性のことをご記憶であろうか。羽田澄子監督のドキュメンタリー映画、『嗚呼 満蒙開拓団』の中で、「私は日本人……」と訴える場面が強く印象に残る方正在住の徐士蘭さん。この映画を看た元中国大使宮本雄二氏の一言が契機となり、現地コーディネーターとして参加した元本会参与の故奥村正雄氏が招日活動を発案、飯白栄助・是洞三栄子・吉川の自称“四人会”で募金活動を開始。呼びかけに応じて個人150人余、2010年6月方正の自宅で3団体から総額50万円超のカンパが寄せられた。 /// 続きは本誌ご参照
- 愛新覚羅浩夫人の書簡を紹介―軟禁中のお世話をした山下(甲斐)香都さん79
- 末広一郎
- 先ず、本稿をご理解下さるため、甲斐国三郎氏を知って下さい。ご本人による簡単な経歴と自己紹介を。 /// 続きは本誌ご参照
- 甦らせたい!伊丹万作が遺した言葉86
- 大類善啓
- 『愛善世界』という大本(教)信徒の少数派グループが出している月刊誌がある。大本は明治25年、開祖・出口なおという女性が京都府の北部、綾部で神がかりして「お筆先」というものを書き出した。無学文盲の「なお」という、いわば老婆に懸かった《丑寅の金神》が彼女に書かせたのだった。 /// 続きは本誌ご参照
- 不安が生む分断 繰り返すな―満州のペスト禍記録 85歳が警鐘93
- 都沙羅(東京新聞)
転載元:東京新聞(2020年10月2日付夕刊)
- 感染の恐れから特定の人々を差別し、攻撃する―。旧満州(中国東北部)の体験を語り継ぐ「北陸満友会」会長の宮岸清衛さん(85、石川県野々市市)は、満州でペストが流行した際の出来事を記録にまとめている。きっかけは現在の新型コロナウイルスの拡大。当時の日本人が他民族を差別し、集落を焼き払ったことを証言し、「感染不安が人と人を分断した。75年以上たった今も同じことが起きている」と警鐘を鳴らす。 /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(1)94
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 本当の地獄 敗戦後だった 襲撃された開拓団 逃避行でも悲劇:前橋→旧満州→長野原 藤川ちゃう子さん(88) /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(2)95
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 死線越え帰国 開拓に尽力 召集・捕虜・抑留 波乱の人生:長野原 柴崎三郎さん(94) /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(3)96
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 被害者でも 加害者でもある 祖父の体験に学ぶ真の歴史:前橋 小池安好さん(94)、孫の法政大3年・豪樹さん(21) /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(4)97
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 谷底目がけ 妹の死体投げた 父の詩残すべき 子らが出版:渋川 故青木覈さん /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(5)98
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 満州で離別 弟2人どこに 兄が迎え「残留孤児」免れる:長野原 湯本啓子さん(88) /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(6)99
- 野口拓朗(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 中国人に預けた妹 心残り 歴史の重み 若者に伝えたい:高崎 飯島治起さん(83) /// 続きは本誌ご参照
- 戦後75年―群馬と満蒙開拓(7)100
- 柳沼広幸(朝日新聞)
転載元:朝日新聞群馬県版(2020年8月23~31日付)
- 中国の家族と 祖国日本へ 親族探せぬまま永住帰国:前橋 原淑江さん(77) /// 続きは本誌ご参照
- 記憶のなかの「満州」―川本サチさんのふるさと(上・下)101
- 青野圭(しんぶん赤旗)
転載元:しんぶん赤旗(2020年8月22、24日付)
- 1924年12月生まれの川本サチさんは今年6月、95歳で永眠しました。戦争の惨禍を体験した世代。お話を伺ったのは92歳の時。何度も「いやねぇ、記憶がはっきりしないわ」とため息をつきました。無理もありません。70年以上も前のことですから。ただ、サチさんが生まれ育った懐かしい故郷は、日本の傀儡国家「満州国(現中国東北部)」だったのです。サチさんの記憶に残る「満州」の暮らしとは―。 /// 続きは本誌ご参照
- 日中のはざま 残留孤児3代の物語103
- 大久保真紀(朝日新聞編集委員)
転載元:朝日新聞(2020年11月27日付)
- 中国残留日本人孤児を祖母にもつ3世が、自叙伝的長編小説「不確かな血」(文景坊出版)を出版した。戦争に翻弄された「おばあちゃん」の人生と、日本で中国という二つの国を背負って生まれた「僕」が抱えてきた葛藤の体験をもとに書かれた。根底にあるのは、歴史を受け継いでいきたいという強い思いだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正日本人公墓が私たちに問いかけるものとは―「方正友好交流の会」へのお誘い104
- 方正友好交流の会
- 1945年の夏、ソ連参戦に続く日本の敗戦は、旧満洲の「開拓団」の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒のなか、飢えと疫病によって多くの人たちがハルピン市郊外の方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人の松田ちゑさんは方正県政府に、「自分たちで埋葬したいので許可してください」とお願いしました。その願いは方正県政府から黒竜江省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、「方正地区日本人公墓」が建立されました。 /// 続きは本誌ご参照
- 報告/編集後記105
- 大類善啓
- まず寄稿していただいた方、また参考資料として関連の新聞記事を送ってくださった方々に感謝いたします。ありがとうございました。最終の原稿チェックには、いつもように森一彦さんを煩わした。寄稿されたご本人も読み直したであろうし、また編集人である私も、原稿を読んでみて誤字脱字はないと思っていても、森さんがまたチェックすると間違いが出てくる。もうこれで間違いはないだろうと思っていても誤字脱字が見つかるかもしれない。また写真を入れるために原稿を短くしていただいたり、締め切りぎりぎりに入稿された原稿があまりに長く、次号に回していただいたのもある。何卒ご寛容のほどお願いします。本号の内容はいかがだろうか。率直なご感想をいただきたい。 /// 続きは本誌ご参照
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