方正友好交流の会
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星火方正
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第3号(2006年12月発行) / 1冊20記事 を表示しています。

  第3号(2006年12月発行) 第3号(2006年12月発行)表紙

松花江のほとりで―発見、交流、涙 第2回方正公墓の旅1
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
方正へ出かける1ヶ月ほど前、ハルビンの石金楷という方から手紙をいただいた。「6月に方正に来られるそうですが…」という書き出し。肩書きはハルビン市中国残留孤児養父母の会秘書長とある。それまでに私が方正行きを知らせてあった中国の関係者は3人で、私たちの方正行きを彼がどこで知ったのか不明だった。6月21日、私たちがハルビン空港につくと彼が養父母の会の理事長とともに私たちを迎えてくれた。私たちの方正行きを彼に知らせたのは方正政府の外事弁公室主任・王偉新であることがわかった。滞在中、彼はときどき私たちの前に姿を見せたが、旅の終盤から帰国後にかけて、彼は思いもかけないことで私に力を貸してくれることになった。それについては後で改めて触れることにしたい。 /// 続きは本誌ご参照
「日中友好交流と歴史検証の旅」に参加して4
吉川雄作(千葉県)
人は全てを知ることはできないし、世の中には知らずともすむこと、知らぬほうがよいこともないではないが、「知らない」ではすまされないこともある。今年6月、奥村正雄氏(『天を恨み地を呪いました』の編著者)が主宰する「千葉健生病院健康友の会中国語教室」に参加していたことが縁で、同教室のメンバー3人とともに、総勢10人で方正の日本人公墓を訪れる旅に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
交流と慰霊、不戦を誓ったハルビン4日間の旅6
猪瀬和道(中国東北地方の教育を支援する会事務局)
「歓迎!歓迎!」。元気な声を上げながら、笑顔で迎えてくれた愛くるしい子供たち。ここはハルビン市方正県の郊外にある沙河子至誠学校。私たち「中国東北地方の教育を支援する会」の交流訪問団が念願の同校を訪れたのは、真っ青な秋空が広がった9月27日だった。訪問団は沖縄、烏取、埼玉県などの日本各地や中国の大連、上海から集まった一行19人。9月26日から4日間の日程で方正県とハルビン市内を訪れ、子供たちとの交流に加え、「日本人公幕」や第七三一部隊遺跡を見学するなど、団員それぞれが心に深く刻んだ旅となった。 /// 続きは本誌ご参照
中国東北地方への旅―開拓団最期の地に立って9
加藤文子(NPO法人中国帰国者の会)
私たち「NPO法人中国婦国者の会」は戦後61年を迎える今年の夏を前に、6月22日から27日まで、中国東北部を訪ねました。私たちの会は、国策により開拓団として満州に送られ、敗戦後は中国に置き去りにされ、長年放置された婦人や孤児たちの早期帰回実現を目的に、残留婦人としてやっとの思いで帰国した鈴木則子が、帰国4年後の1982年に設立した会です。国による帰国の施策が遅々として進まず、民間組織の活動なしには、婦人や孤児の祖国への帰国も、また帰国後の自立もままならない現状を帰国後初めて知り、誰かがやらなければと、談立したのでした。 /// 続きは本誌ご参照
風化させてはならない歴史事実―方正日本人公墓と人々の心12
高橋健男
高速道路の高架をくぐり一面の水田の中の道路を左手に進むと、小高い松林の丘があり、その麓に広がる「中日友好園林」にたどり着く。その中に中国人が日本人のために建てた唯一の公の墓がある。一番奥まったところに「方正地区日本人公墓」「麻山地区日本人公墓」の墓碑が並ぶ。墓碑の後ろ手に、方正の凍士に眠った日本人満洲開拓民約4,500体の遺骨が、そして麻山で集団自決した日本人満洲開拓民400余体の遺骨を納めた円形墳墓がある。その慕碑から右手に20メートルほど歩を進めると、孤児となった開拓民の子供たちを養育してくれた「中国養父母公墓」がある。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州二題15
寺沢秀文(方正友好交流の会理事・長野県飯田市)
去る6月25日、中国・遼寧省の葫蘆島市にて中国側主催による日本人居留民送還事業60周年記念事業式典が開催され、日本側からも日中友好協会(全国本部)の代表団(団長・村山富市元首相)、信州葫蘆島の会の代表団(団長・穂刈甲子男同会会長)など、全国各地から約180人が参加した。終戦の冬を多くの犠牲者を出しながら旧満州各地で越冬した日本人居留民は、翌昭和21年春から引き揚げが始まり、特にその中心となった葫蘆島からは約105万人の日本人が引き揚げたとされている。 /// 続きは本誌ご参照
「満州」/「引揚げ」の記憶をたどって―泰阜村・方正・コロ島等を点にして17
南誠(方正友好交流の会理事・京都大学大学院生)
かつては、満洲開拓団の跡地を訪れた日本人ジャーナリストが書いた次のような文章を読んだことがある。現地の子供を見ながら“この子達はいつか、満洲のことについて勉強するようになるのであろう”、と。私はまるでそれに導かれたかのように、修士課程に入った2001年から満洲について勉強するようになった。もちろん、当時の指導教官小林英夫教授のご教示に負うところが大きかったことは言うまでもない. /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の郷・方正の『礎』となった民族の懐の深さ―「日本人公墓」のある黒龍江省方正県は、民族の寛大さが表れている 「生きた化石」、特殊な歴史によってつくられた特殊な華僑の郷だ19
顔乗光・崔峰(人民日報)     転載元:人民日報海外版(2006年6月8日付)※中文原文添付
「日本人公墓」の傍らにもう一つの「中国養父母公墓」がある。この二つの公墓の間が独特な「歴史の対称」のような雰囲気を醸しだしている。一つは戦争被害国が、戦争を仕掛けた相手の国の受難し在留した人々の為に建てたものであり、もう一つは戦争を仕掛けた国の在留した人々の子孫が、自分たちの命の恩人である戦争被害国の国民の為に建てたものである。 /// 続きは本誌ご参照
徳をもって恨みに報いる義挙が日本を感動させる22
国際先駈導報     転載元:国際先駈導報電子版(2006年6月6日付)※中文原文添付
中国が「日本人公墓」を建立したやり方は、日本人の一部の民衆と学者の賞賛と感動を呼んだ。「この公墓は日本にもある程度の知名度があり、20世紀80年代から毎年約20団体以上の日本政府及び民間団体が方正に来訪して観光と墓参りを行った。90年代に入ると日本政府と民間の友好団体が公墓拡張のため、資金援助を行った。近年、毎年延ぺ30から40以上の日本人観光ツアーが来訪して見学を行い、最も人数が多かった団体は、1290人にのぼった」と方正県政府外事弁公室主任王偉新が「国際先駆導報」に語った。 /// 続きは本誌ご参照
怪物的な元気さを誇る韓慶愈さん24
大類善啓
長年、日中友好運動の先頭に立って活動されている本会顧問の韓慶愈さんは今年で80歳である。しかし通常考える年齢以上にとても元気で、頭の回転も衰えることはなく、また目配り、気配りもおさおさ怠りなく、しっかりしている。毎日仕事で接している者がいうのだから間違いはない。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 知る旅へ―満州の歴史 若い世代に25
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2006年5月22日付)
中国黒竜江省方正県と交流する市民団体「方正友好交流の会」(事務局・東京)が六月、満州開拓団員らの遺骨を納めた現地の「日本人公墓」などを訪ねる「歴史検証の旅」に出掛ける。戦後六十年の節目の昨年、日本人公墓の存在を広めることなど目的に県内関係者も加わって活動を再開した交流の会にとって、再出発後初の訪中。今後の活動に弾みをつけると同時に、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を巡り緊張が続く日中関係を、市民活動から改善していく一助にと願っている。 /// 続きは本誌ご参照
にいがた時評:三波春夫と旧満州―命懸けの逃避行 歌忘れず26
奥村正雄(方正友好交流の会顧問)     転載元:新潟日報(2006年7月22日付)
終戦前後、満州開拓団を襲った悲劇の数々を取材していた私は、四年前の夏、新潟市東堀で染物屋を営業しておられた野口幸次郎さん(84)を新潟市国際諜の近藤淳一さんから紹介され、お話を聞く機会があったが、その中に三波春夫のことがでてきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正友好交流の会とODAの関わり27
牧野文敬(方正友好交流の会参与)
方正県に対する日本政府からのODA実施については、次の4点を基本として1996年3月25日、ハルピン市科学技術委員会主任と国際協力事業団専門家派遣事業部長との協定書署名調印によって実施された。 /// 続きは本誌ご参照
天を恨み 地を呪いました―中国・日本人公墓のうめき(2006年12月3日・幕張9条の会発足記念講談台本)28
奥村正雄(方正友好交流の会参与)
今からお話いたしますのは61年前、実際に起こったお話でございますが、それよりさらに13年さかのぼります1932年3月1日、中国の東北3省、今で申します黒竜江省、吉林省、遼寧省の3つを合わせたところに「満州国」という国が誕生いたしました。国とは申しましても日本が朝鮮を植民地としたあと、ここに中国の辛亥革命で皇帝の地位を追われたラストエンペラー・溥儀さんを連れてきて皇帝に据えまして、13年間、日本が思うままに操った、いわば幻の国でございます。 /// 続きは本誌ご参照
お元気な松田ちゑさん34
大類善啓
方正県にある日本人公墓の建立のきっかけを作ったのは、周知のように松田ちゑさんだった。方正県にある砲台山の麓に散乱していたおびただしい白骨を見て、なんとか骨を拾い、お墓を建てたいと、県政府に願い出たことが中央政府をも動かした。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第1回)35
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)
本編の主人公、韓慶愈は当会の顧問である。昨年再編総会のおり、韓が挨拶した際、自分が敗戦後、日本に残留せざるを得なかった当時の思いを重ねて、中国に残留した日本婦人のことを語ったところ、参加者に少なからぬ感動をもたらした。それから1年後の今年3月、総会後の懇親会のことである。15人ほどが集まり、各自に簡単な自己紹介をしてもらった。その時韓は、中国に帰国しようとした船が広島の原爆投下、日本敗戦により再び日本に舞い戻った経緯に触れて自己紹介をしたところ、多くの人から、「そういう体験を聞くのは初めてだ。ぜひ本にしたらどうか」という意見が出た。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い46
方正友好交流の会
中国ハルピン市郊外の方正県に日本人公墓が建立されているのをご存知でしょうか。1945年の敗戦のさなか、祖国を目指して逃げ惑った旧満洲の開拓団の人々は、難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々がこの方正の地で息絶えました。それから数年、累々たる白骨の山を見た残留婦人が骨を拾い集めました。そして力を貸した中国人たちが集めた遺骨はおよそ五千体ともいわれています。 /// 続きは本誌ご参照
執筆者及び関係団体の紹介47
方正友好交流の会
吉川雄作さん、加藤文子さん、高橋健男さん、NPO法人「中国帰国者の会」について、NPO法人「中国焔国者の会」訪中団について /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内48
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『日本と中国 その底辺を翔けた70年(石井貫一編著)』、『天を恨み 地を呪いました―中国方正の日本人公墓を守った人々(奥村正雄編著)』、『二つの祖国 ある中国残留孤児の証言(北澤博史著)』、『赤い夕陽の満州にて 「昭和」への旅(高橋健男著)』 /// 続きは本誌ご参照
編集後記49
大類善啓
この6月のことである。仕事で付き合いのある知人の中国人が大連から電話をかけてきた。「いやぁ大類さん、ぴっくりしたよ。中国最大のインターネットの検索サイトで、方正のことが出ていて大類さんの名前も出ているよ」と教えてくれた。そこで初めて、『国際先駆情報』に記事が出ていることをインターネットで知った。まさにインターネットの時代だと実感した。大連の知人も方正の公墓について初めて知ったという。 /// 続きは本誌ご参照
 
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