方正友好交流の会
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星火方正
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第28号(2019年5月発行) / 1冊32記事 を表示しています。

  第28号(2019年5月発行) 第28号(2019年5月発行)表紙

丸山邦雄氏らの功績についての再評価1
寺沢秀文
『星火方正』の第27号(昨年12月発行)に掲載された加藤聖文先生の『誰が満洲引揚を実現したのか』と題した論説について、またそこでも触れられている丸山邦雄氏らの功績について、私なりの私見を述べさせて頂きたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
ポール邦昭丸山氏よりのお手紙13
寺沢秀文
これは『星火方正』前号に掲載の加藤聖文先生の論説のコピーをアメリカ・コロラド在住のポール邦昭丸山氏にお送りしたところ、その後にメール添付で寺沢宛て送ってこられた丸山さんよりのお手紙です。今回、丸山さんご自身からも『星火方正』への原稿寄稿を予定していましたが、丸山さんにおかれては今年3月に肩の手術をされたために約2ヶ月にわたりパソコン操作が出来なくなっておられます。丸山さんご本人ともご相談の結果、以前に寺沢宛てお送り頂いていたこのお手紙をその原稿に代えて掲載して欲しいとのご要望であったところから、ここに掲載させて頂きます。 /// 続きは本誌ご参照
性暴力被害の記憶を受け継ぐ17
上野千鶴子
このところ、満蒙開拓団の引揚げ問題にのめりこんでいる。わけても引揚げ時の女性の性暴力経験に、強い関心を持っている。それというのもこの2年間ばかり、上野千鶴子・蘭信三・平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』[上野・蘭・平井2018]という編著を出すのに、並々でないエネルギーを割いてきたからなのだが、この中には、若い研究者による戦時性暴力研究の成果がいくつも収録されている。注目を集めた「慰安婦」問題ばかりではない。満洲引揚げ時の女性の性暴力経験を論じた猪股祐介「語り出した性暴力被害者---満洲引揚者の犠牲者言説を読み解く」、フィリピンの現地女性強姦事件をめぐるBC級裁判記録を分析した岡田泰平「日本軍『慰安婦』制度と性暴力」、敗戦後のパンパンの生存戦略を論じた茶園敏美「セックスというコンタクトゾーン―日本占領の経験から」など、これまで論じられてこなかったテーマが扱われている。 /// 続きは本誌ご参照
視線23
柳生じゅん子
「満洲に転勤しなさい 空襲はないだろうから」 大伯父の言葉に追いたてられ 船で大連に上陸したとき 母が一番先に見つけたのは キャラメル /// 続きは本誌ご参照
母の帽子24
柳生じゅん子
「あんた どこから帰ったの?」って両方で駆け寄ったのよ。女学校の時の同級生と街でばったり会ってね。一目見て満洲から引き揚げてきたとわかった。お互いに毛糸で編んだ帽子を被っていたからよ。ソ連軍が参戦したときに女の人たちは坊主頭にして夜は屋根裏に潜ったりしたのよ。女って悲しいと思う悲劇は言い尽くせないほどあったわ。敗戦後もソ連兵は長くいたし髪を短く切ることは外地で女の人が身を守る痛ましい術だったのね。だから襟足のところを隠すような独特の帽子だったの。お互いに引き揚げてまだ一ヵ月だった。 /// 続きは本誌ご参照
私の引揚げ体験と『星火方正』など27
戸田和歌
田井光枝さん。先日は一年ぶりに再会できましてとても嬉しゅうございました。早速ですがお渡ししました「わんりぃ」の過去の資料につきまして一寸説明させていただきます。私の友人で生長の家関係の人がおります。今回、大類善啓氏が書かれた”わんりい”の234号と235号の記事*を読みましてふとこの友人を思い出しました。彼女は京都出身で、お父様が元大本(教)の信者でいらっしゃられたこと、生長の家の創始者の谷口雅春と一緒に当時活動をされていたと彼女が述べておられました。そこでこの”わんりい”の記事を渡しましたところ彼女に大変喜ばれました。それからさらに彼女が生長の家の方々などにこのコピーで伝え、皆様が生長の家の歴史の一端を大類先生の御文章により当時を垣間見ることが出来たのではと察しています。 /// 続きは本誌ご参照
田井光枝さんとの出会いと戸田和歌さんの手紙32
大類善啓
2016年の初めだったか、日中文化交流市民サークル誌「わんりぃ」の編集発行人だった田井光枝さんから,「なにかエスペラントについて書いてください」と言われた。当初は2、3回のつもりだったが、「興に乗ればもう少し書くかもしれません」と田井さんにお話したところ、「大いに結構、ずっと書いてください」と言われ、国家や民族を超えて、「我々は人類の一員だ」というエスペラントの創始者、ザメンホフの人類人主義という考えなどについて2016年3月号から書き始め、結果的には「日本エスペランティスト列伝」のような形になって2年半ほど28回に亘り連載し、日本のユニークなエスペランティストたちを紹介してきた。 /// 続きは本誌ご参照
生かされた生命―—天津の日本租界での生活を思い出しつつ33
水沼安美
昨年(2018年)の8月、東京新聞に、「語り継ぐ」のタイトルで原稿募集があり、書いて送り採用され掲載されましたがその文は短く、また、ある単語は削除されました。その削除された単語も入れて、戦争中のことを思い出しながら今回、もう少し長くして新たに書いてこのようにまとめてみました。 /// 続きは本誌ご参照
「日本人」はどうやってつくられたか、そして、どこに向かうべきか35
高井弘之
昨2018年は、「明治150年」ということで、「近代日本国家150年」が政府によって礼賛された。そして、それは、いま、その「代替わり」を迎え、メディアを中心にその大讃美が行われている天皇制の150年でもあった。 /// 続きは本誌ご参照
なぜ中国は気前よくベトナムと北朝鮮に領土を譲与したか?―毛沢東、周恩来らの国際主義精神を見る42
凌星光
南シナ海のベトナム領「白竜尾島」はもと「夜鶯島」と言い、淡水のあるかなり広い中国領土であった。しかし、それは1957年に中国から譲与されベトナム領となった。この島は北緯20°01’、東経107°42’に位置し、全島長さ3キロメートル、最も広い幅は1.5キロ、面積は2.5平方キロで、かなり大きな島である。トンキン湾の中心から少しベトナムよりにある島である。1955年時点では、住民は64世帯249人(男127人、女122人)が居住し、すべてが漢民族で漁民としてアワビの生産に従事していた。二つの村があって、大きい方は「浮水洲村」、小さい方は「公司村」と呼び、広東省海南行政区儋県に属していた。 /// 続きは本誌ご参照
法政大学経済学部同窓会建立「平和記念碑」―どう守り、どう伝えるか 学徒出陣を体験した世代が後輩に残すメッセージ45
加藤毅
東京の町田市と八王子市が接する丘陵地帯の一角に、法政大学の広大なキャンパスがある。現在四つの学部、図書館、ホール、各種のグランドや体育館などを備えるが、緑深い樹々に覆われていて、市街地にあって校舎群が密集する市ヶ谷キャンパスとは全く趣きの異なる“多摩キャンパス”である。 /// 続きは本誌ご参照
記憶を記録に―哈爾浜の思い出52
長尾寿
ご縁あって方正友好交流の会に入会させて頂くことになりました。私は9歳の時、葫蘆島から米軍のLSTで佐世保へ上陸した引き揚げ者です。葫蘆島では帰国船を待つ間、収容所周辺を遊び回っていましたが、「あっつ、ヘビだ!」と恐怖の叫び声を発した一瞬、大人達がやってきてへびを捕獲するやいなや、皮を頭から下へ剥がし焼いたのです。「ぼんも食べ!」と見つけたお礼にもらい美昧しく食べたのです。後にも先にもヘビを食べたのはこの一度だけで白い身だったのが印象的です。LSTは戦車を運ぶ軍用船で、私たちは戦車代わりに船倉に詰められ船のエンジン音が響いていました。しかし、船上の甲板では子どもの相撲大会が催されるなど退屈しのぎの余興もあり船内を歩き回っていました。そんな中、母国への上陸を目前にしながら船中で死去された方の遺体を海中に沈め船は汽笛を鳴らしながら回旋する船葬の悲しい出来事もありました。 /// 続きは本誌ご参照
生きるために闘ってきた人生54
中島茂
泰阜村左京 6歳の時父は三信鉄道の線路工夫でしたが、大勢の家族を抱えて生活が近難だった。住んでいた家も同じ部落で母の実家の兄さんから借りていたもの。その叔父さんも満州に行くことになっていて、誘われるように一緒に渡満したのです。敦賀港から朝鮮の新津に着き(確かでないかも)、そこから汽車に乗って満州の華川県大八浪開拓団に入植しました。9月頃でしたがトラックの荷物の上に載って家のある部落に着きましたが、もう寒かったと思います。翌年の4月に開拓団本部の近くにあった小学校に入学し、家から遠い処だったので寄宿舎に入って学校に通いました。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン市と方正県との間に高速鉄道が開通!59
石金諧
ハルピン市と方正県との距離は僅か180キロメートル。昔から両地の間には列車のレールが施設されずにきましたので、ハルピン市から方正へ行くには、高速道路入口への市内移動も含めると、3時間以上を要しました。ところが、2018年9月30日に、ハルピン市と佳木斯市との間に、高速鉄道が正式に開通したのです。これにより、ハルピン市から方正県までは、僅か70分程度で行けるようになりました。 /// 続きは本誌ご参照
牡丹江、ハルビン 鎮魂・平和の旅60
藤後博巳
この随想は、神戸の友人が敗戦直後、旧満州で亡くされたお父さんを偲んで、ご親戚の方も含めて当地を旅する際の参考資料と、私の自己紹介の意味で中国での稀有な体験を知って頂けたらという思いがありました。中国で加害と被害を同時に立たされた私としては、あの忌まわしい戦争の事実を、後代に語り継いでいかなければという自責の念に駆られて、友への手紙という形で記述しました。 /// 続きは本誌ご参照
宝塚市の高碕記念館を見学して70
長澤保
今年は中華人民共和国70周年の節目。日中戦争が勃発して敗戦、82年の時が流れた。日ソ中立条約が破棄をされ、1945年6月9日、ソ連軍はソ満国境を各所から侵攻し、北満に移住しておられた日本人の農業開拓者は、襲撃されて逃避行・集団自決の惨禍に遭遇された。ソ連兵たちは乱暴狼藉を働き、略奪婦女暴行の限りを尽くしたことは史実として知られている。武装解除された日本兵がシベリアへ抑留され、極寒の地で労働させられた体験者とも複数の方々と出会った。私の家族も父が満鉄社員で撫順炭鉱に勤務しており、小学校3年生だった(東公園国民学校)。妹と四人家族で、日本人住宅街に居住していた。 /// 続きは本誌ご参照
この人:日露戦争 捕虜収容所の映画で主演 ロデオン・ガリュチェンコさん(31)72
平松倫(東京新聞)     転載元:東京新聞(2019年4月13日付朝刊)
日露戦争(1904~05年)の際、国内初のロシア人捕虜収容所が松山市に開設され、一流国入りを目指す日本は捕虜を厚遇した。この史実を基に作られ、3月から各地で順次公開中の日ロ合作映画「ソローキンの見た桜」で、負傷して収容された将校を演じた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館を訪れて73
横井幸夫
私が長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館(以下、記念館)について知ったきっかけは2つある。1つ目。2016年11月17日に天皇・皇后両陛下が記念館を訪れた。私はこのことを新聞で読み知った。ただし訪問に関してのテレビ、全国紙の報道は大きくは無かった。小さな扱いの報道だったといえるだろう。この訪問について寺沢秀文館長は自らのブログ・テラサワ日誌の同年12月26日の記事にこう書いている。 /// 続きは本誌ご参照
林口ヘ行ってきました76
野中酉夫
2017年1月17日、あるテレビ局の番組「世界の村で発見!こんなところに日本人」で、中国黒竜江省の林口という町で暮らす、席静波さんという日本人が紹介された。席さんは中国東北部(旧満州)に入植していた開拓団で暮らしていたが、3歳の頃第2次世界大戦末期の混乱で家族と離別してしまい、天涯孤独になってしまった。その後4人の中国人養父母に育てられながら、74歳になる今日まで中国で生きてきたという経歴の持ち主である。 /// 続きは本誌ご参照
「大地の子」も知らなかった私が、方正地区日本人公墓を訪ねるまで79
大澤大介
中国残留日本人については特別な思い入れは無かった。終戦後の混乱のため中国に取り残された日本人が多くいたこと、そんな身寄りのない日本人を引き取って育ててくれた中国人がいたということ、そういう事実を何となく知っていたに過ぎない。ただ漠然と不思議に思っていたのは、中国人は侵略してきた日本人が憎くなかったのだろうか。そのような疑問を抱きつつも、努めて解明しようとは思わなかった。そんな私が中国残留日本人の問題に関心を抱くきっかけになったのは、会社の業務で残留体験孤児へのインタビューを行ったことだった。 /// 続きは本誌ご参照
合唱を通して中国の人々との草の根の文化交流83
小渕章
私は紫金草合唱団として2001年3月最初の南京公演に参加して以来、これまで紫金草合唱団としては2回、台湾公演を含めると3回、再生の大地合唱団としては3回の中国公演に参加してきました。公演で訪問した地域は、南京、瀋陽、撫順、北京、泰州でした。そこでは、中国の多くの市民の皆さんに南京事件の加害を扱った合唱朗読構成「紫金草物語-不忘歴史・面向未来」(作詞・構成;大門高子、作曲;大西進)、平頂山事件の加害を扱った「再生の大地-撫順戦犯管理所-」(作詞・構成;大門高子、作曲;安藤由布樹)の合唱を通して、歴史の事実を見つめ平和と中国の人々への友好の思いを届け、行った先々で中国の市民合唱団や学生の合唱団の方々との交流をしてきました。帰国してからは、その都度、まだまだ知られていない歴史の事実と私達の取り組みや体験をより多くの方に知っていただこうと現地で撮った写真など入れて文章化し、私の所属する山の会や地域で9条の会などの平和憲法を守る市民運動をしている方に配布してきました。 /// 続きは本誌ご参照
台北からの引揚87
秋吉任子     転載元:あれから七十三年 十五人の戦後引揚体験記 旧滿洲七話、朝鮮半島七話、台湾一話(図書出版のぶ工房/堀田広治監修)からの転載】
終戦当時、私たち一家八人は、台湾台北州台北市に住んでいた。父が、台北一中の英語教師として赴任したのは、昭和十三(1938)年三月のことである。その一ヵ月ほど前に、父母は三人の幼い息子(六歳、四歳、二歳)と昭和十二年十二月に生まれたばかりの長女の私をつれ、福岡県糸島郡前原町(当時)から台北市に移り住んだ。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州に残され74歳の帰国―残留孤児の認定 得られぬまま91
平井良和(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年12月8日付夕刊)
旧満州で生まれ、終戦後の混乱期に日本人から現地の養父母に預けられて中国残留日本人孤児の認定を求め続けてきた74歳の女性が、「故郷」と思い定める日本へ移り住むことを決めた。日本にもう肉親はおらず、中国には家族や友人に囲まれた穏やかな暮らしがある。それでも、最後は故郷で過ごしたいと、9日に「祖国」へ渡る。 /// 続きは本誌ご参照
日本人と認めてほしい―中国残留孤児の女性 74年ぶりの帰国92
    転載元:日本友好新聞(2019年3月15日付)
日本人でありながら、日本人と認められていない中国残留孤児の女性がいます。彼女の名前は郜鳳琴さん。縁あって、昨年8月に熊本県に住む日中友好協会会員の残留日本人孤児・庄山絋宇さん(80歳)と結婚し、年末に日本へ帰国。郜鳳琴さんに激動の半生を伺いました。 /// 続きは本誌ご参照
歩いて越えた38度線―朝鮮・鎮南浦から引き揚げ、家族の記録を出版93
遠藤みえ子     転載元:日本経済新聞(2019年3月15日付朝刊)
北朝鮮の首都平壌の南西。大同江が黄海に注ぐ河口付近に広がる南浦市は、日本統治時代に鎮南浦と呼ばれ、釜山、仁川に次いで大きな港町だった。私たち一家は(応召の父を除いて)1945年8月の終戦を鎮南浦で迎え、翌年10月に母の郷里である岡山県倉敷市に引き揚げてきた。 /// 続きは本誌ご参照
ソ満国境 少年が見た死線―終戦後の逃避行と捕虜生活、手記もとに映画化進行中94
田原和夫
敗戦から70年近い今も決して忘れない。異国での約300キロにわたる敵からの逃避行。そして捕虜となり、餓死寸前の体で明日をも知れぬ命におびえた日々のことを。15歳、中学3年生だった。 /// 続きは本誌ご参照
魯迅 日本人青年との友情―地下生活や上海事変を共にした文豪と画家の卵95
横地剛     転載元:日本経済新聞(2018年12月28日付朝刊)
玄界灘に突き出した糸島半島(福岡県糸島市)にはかつて、近代中国文学の父である作家・魯迅が自ら碑銘を記した墓が立っていた。「鎌田誠一墓」と彫られた墓石は西海のかなた、中国・上海を向いていた。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:科学技術文化の全分野で日中交流をさらに展開させたい―使命感を胸に創立40年の社団のかじを取る96
巨東英(一般社団法人日中科学技術文化センター理事長、埼玉工業大学副学長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2018年10月1日)
大学の副学長を務める傍ら、昨年6月に凌星光氏(福井県立大学名誉教授)の後任として、まもなく創立40周年を迎える(一社)日中科学技術文化センターの理事長に推挙された。 /// 続きは本誌ご参照
この人に聞きたい:第2回長年語れなかった体験―すがる人を蹴落として生き延びた東京大空襲97
半藤一利(作家)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2019年2月3日付)
〈半藤さんの歴史探究の根っこにあるのは戦争体験です〉正直に言いますと、私はある時期まで東京大空襲で死ぬ思いをしたということを黙っていました。文芸春秋に入ってからも、40歳を過ぎるころまで黙っていたので、ほとんどの人は私の空襲体験を知りませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
憲法の心、再発見―映画『誰がために憲法はある』 松元ヒロの一人芝居が基に “憲法くん”役 俳優・渡辺美佐子さん98
板倉三枝(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗日曜版(2019年4月21日付)
日本国憲法を人間にみたてた一人芝居「憲法くん」。これを基に映画「誰がために憲法はある」(監督・井上淳一)が誕生しました。「憲法くん」を演じるのは、86歳の名優・渡辺美佐子さん。作品に込めた思いを聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い99
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記100
大類善啓
元号を巡ってのこの間のメディアの報道ぶりを見ていると、もういい加減にせんかい、と言いたくなるほどの狂騒ぶりである。友人知人の何人からは、このような風潮を憂えるメールなどを受け取り、同じように感じている仲間は確かにいるのだと改めて思った。 /// 続きは本誌ご参照
 
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