方正友好交流の会
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星火方正
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第27号(2018年12月発行) / 1冊34記事 を表示しています。

  第27号(2018年12月発行) 第27号(2018年12月発行)表紙

誰が漬洲引揚を実現させたのか?1
加藤聖文
2018年3月末にNHKで「どこにもない国」というドラマが2夜にわたって放映された。引揚体験者から見るといろいろと意見もあるだろうが、ドラマとしてはよく出来た内容で、放送文化基金賞奨励賞を受賞した。私も時代考証を担当したが、今回ほど史実とフィクションの境目の表現の大変さを実感したことはなかった。 /// 続きは本誌ご参照
満州移民や中国人強制連行について留学生にどう教えるか?―法政大学国際文化学部のSJ国内研修について9
高栁俊男
私が勤めている法政大学国際文化学部では2012年度以降、留学生を主対象に、夏休みに8日間程度の国内研修を実施している。SJ(StudyJapan)国内研修と呼ばれ、研修地は長野県南部の飯田・下伊那地方。ここは1930年代後半から1945年にかけて、満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡った人の比率が、全国的にみてきわめて高い地域である。 /// 続きは本誌ご参照
国家と宗教について―天理教と旧満州との関わりについて思う19
エィミ ツジモト
今春、「満州天理村—生琉里(ふるさと)の記憶」を出版した。半世紀近くも前に入院した先の病室で、「天理村」と言う言葉とその存在を、ふと耳にした。それは、かつて日本の傀儡国家「満州国」が実在した北満州に、開拓団として入植した天理教教団の教徒が開拓した独自の村のことであった。以来、宗教社会学の視点から「満州天理村」の研究に打ち込む中で出会った天理教信者たちが抱く、その理不尽さに対する心奥の声を長い時を経てようやく世に訴えることができ、安堵しているところである。 /// 続きは本誌ご参照
怒り憎しみと報復の連鎖を断ち切って―「日中平和友好条約」40周年にあたり、撫順と方正に平和と友好の歴史を再認識する22
姫田光義
《解説》本講演は今年、2018年6月10日(日)第14回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である。姫田光義さんについてのプロフィールは、本稿の最終頁に姫田さんの自己紹介が出ているので、お読みいただきたい。姫田さんに最初にお目にかかったのはいつだったか。ある会合後の二次会でお会いし、方正日本人公墓についてご意見をお聞きしたところ、「中国の仁愛思想の表われと言えるだろう」という言葉に、意を強くしたことを覚えている。中国の「文化大革命」については、当時の意識的な学生などの若者たちは大いに共感したものだった。私も1968年以降はその一人であり、今でも「精神労働と肉体労働の統一」とか知識偏重に対する批判や「造反有理」などの思想は、「パリ五月革命」に対する共感と共に、今でも熱い気持ちが心の底に横たわっているように感じる。そういう時代状況の中、姫田さんが中国近現代史研究家として実に冷静な眼で当時の中国の政治状況を観察していたということに驚くとともに畏敬の念を持っている。さて、講演は「この道」(北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡)の替え歌を姫田さんが歌うところから始まった。(大類) /// 続きは本誌ご参照
対立・侵略・追放・和解―ドイツ・ポーランド関係史から考える東アジアの隣国関係(下)38
木村護郎クリストフ
ドイツとポーランドは、戦後どのように関係を築いていったのでしょうか。東ドイツ(ドイツ民主共和国)の場合は、政府レベルでは同じ社会主義国としてポーランドと少なくとも表面的には友好関係を結ぶのですが、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、西の隣国フランスをはじめ西側との関係修復を優先しており、ポーランドとの関係では、1945年から20年間は目立った動きはなかったといえるでしょう。 /// 続きは本誌ご参照
民間交流を通じて、友好的な末来を促進しよう!―ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会訪日交流記49
胡暁慧(ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長)
2018年4月30日から5月9日、ハルビン市日本人残留孤児養父母連絡会名誉会長の胡暁慧は、中国に残っている日本人残留孤児と2世の代表5人とともに、日本側の招待に応じて七つの都市と九つの民間団体、15人の残留孤児のもとを訪ねた。今回の訪日では、多くの友好的な人々の熱心な助力と、日本の一般社団法人日中科学技術文化センター及び方正友好交流の会の保証によってスムーズにビザを取得することができた。また曹洞宗東岸寺の野田尚道法師から資金援助を受け、明治大学の鐘家新博士が通訳を引き受け、早稲田大学の中国人留学生劉聡が残留孤児をインタビューするなかで撮影を担当してくれ、我々の訪日を無事に終えることができた。 /// 続きは本誌ご参照
旧「満州」史跡・名所をたどる平和の旅に参加して53
野田尚道
2018年7月16日~23日、縁あって戦争を語り継ぐ特別企画の旅に参加した。成田から仁川経由で、大連・旅順・丹東、長春、ハルビン・方正、瀋陽と過去に日本が五族協和の王道楽土建設の美名の下に侵略した戦跡を辿る旅は、「戦争」というものが悲惨という言葉だけでは片付けられない、如何に人間を狂わせ、必然的に南京大虐殺に繋がっていく歴史を辿る旅でもあった。 /// 続きは本誌ご参照
去る5月に中国残留孤児足跡展開催57
中島幼八(『この生あるは』、『何有此生』著者)
白山丸で舞鶴に帰還して60年にあたり、2018年5月4~7日の連休期間において、思い切って自分の体験に基づく個展を開催した。あいだの5日に「1958年における強制連行の劉連仁と残留孤児の中島幼八」の題で記念講演会(今井雅巳岐阜大学講師)を開いた。世田谷区の後援を得て、区の施設に置きチラシと、街の掲示板へのポスター掲示で宣伝を行った。そのこともあって、区内からの来場者や若い方が目立った。主催者として展示内容の構成や展示物の準備に力をさいた結果、非常に充実していると評価が高かった。 /// 続きは本誌ご参照
「花がすき 歌がすき 平和がすき」日中友好を願って加害を歌う60
大門高子(紫金草合唱団・再生の大地合唱団)
私は、昭和20年生まれの終戦っ子記憶のない戦争体験者です。終戦の一月前、生まれて10日目に宇都宮空襲の火の中、母親に抱かれて二荒山神社防空壕に逃げて生き延びたと兄から何度か聞かされたものです。10数年ほど前、その防空壕に兄と姉、新聞記者の人や戦跡保存の会の人と一緒に中に入ることができました。庭の持ち主によると戦後始めて入るだろうとのことでした。にぎやかな街中にひっそりと残っていた防空壕の入り口は、小屋で隠れていて低かったものの、中は思ったより広く不思議な空間でした。40人ほど中に入ったそうでしたが、すぐ近くの防空壕や街中ではたくさんの人が焼け死んだとのことでした。 /// 続きは本誌ご参照
ありがとう飯白さん、ご苦労さまでした飯白さん―悲報、飯白栄助さんを偲ぶ68
大島満吉
関東地方は観測史上初めてという6月29日梅雨明け宣言があった。ところが、7月4日頃から降り続く大雨が九州、四国、中国地方に大洪水をもたらし、120人を超す死者を出す大惨事が起きた。常々、異常気象が心配されていたが、世界中に今まで例のないと言われる酷暑、寒冷、洪水、地震、山火事、噴火、津波、ハリケーン等のニュースが飛び交う昨今である。 /// 続きは本誌ご参照
中国等残留孤児・婦人の帰国と生活支援・教育支援―公の記録のない1967~1974年の帰国者支援70
宮武正明
私が方正友好交流の会を知ったのは、2015年石金楷さんが日本人孤児の奥さん(2歳の時残留孤児になる)と帰国したことからである。私の友人は、2014年に富士旅行社の「中国東北部を訪ねるツアー」に参加して、方正において残留日本人孤児・婦人の組織化に取り組んできた石さんと交流した。友人は、福祉事務所の所長として2008年からの新支援策に関わっていた。石さん夫妻は2015年に日本に帰国し、6か月間の所沢定住センターを経て、江戸川区の都営住宅に入居し、友人に帰国を伝えてきた。2016年私は友人に便乗して石さん夫妻の都営住宅を訪ね、石さんの話の中で、交流の会があることと会報『星火方正』を初めて知った。石さん夫妻の都営住宅は、この報告にでてくる小松川第二中学校夜間中学にも近く、私が福祉事務所ケースワーカーとして担当した懐かしい都営住宅であった。 /// 続きは本誌ご参照
大陸科学院国立奉天獣疫研究所の想い出81
掛谷敏男
星火方正、大類善啓様、貴会に入会させて頂きました。掛谷敏男で掛谷敏男ございます。私は現在、広島県福山市内在住です。小学校卒業後、昭和17年2月満蒙開拓青年義勇隊内原訓練所に入所、四月に満洲国青年義勇隊勃利訓練所に入所、18年6月、満洲国大陸科学院、国立奉天獣疫研究所、義勇隊特殊訓練所入所、2ヶ年の訓練を卒業、昭和20年6月、満洲国黒河省璦琿県義勇隊、団山開拓団現隊に復帰、副獣医師として勤務中、八月に敗戦となった。余儀なく開拓団を離れて戦闘に参加。シベリアに連行され、捕虜となってシベリアギヴダー収容所に抑留されました。約2ヶ年の在ソ後、舞鶴港に引き揚げ相成りました。奉天獣疫研究所がすばらしい成果を収めたので、想い出の一端を2ヶ年ではありましたが、貴重な訓練と実績などに就いて愚筆申し上げたいと存じます。 /// 続きは本誌ご参照
「奉天獣疫研究所」 掛谷敏男(補足)90
末広一郎
「奉天獣疫研究所(奉獣研)」に関する掛谷敏男さんの執筆を拝見して、より「奉獣研」の内容を深めて頂きたいのと、掛谷さん本人のことについて、補足説明を加えます。お互い満蒙開拓青年義勇隊員であります。広島県でもそうであるように、義勇隊員の慰霊祭を恒例の護国神社で毎年3月第2日曜日と定め催行されております。広島県選出の義勇隊員各中隊の生存者、遺族の方が顔を合わせ、護国神社に集合しておりました。その関係で、掛谷さんを始め、多くの拓友とも挨拶程度の交流はありました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓、その存在の意味とは93
大類善啓     転載元:中帰連(2018年10月・63号)
季刊「中帰連」は、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が発行している。この会の前身が「中国帰還者連絡会」である。中国での戦争犯罪容疑で、日本軍人をはじめ、1000人ほどの人たちがシベリア抑留を経て1950年、主に撫順戦犯管理所に抑留された。戦犯の中には愛新覚羅溥儀もいた。 /// 続きは本誌ご参照
「ニューヨーク・タイムズ」に方正日本人公墓の記事掲載99
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
あるいはご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、今年5月18日付けの「ニューヨーク・タイムズ(THENEWYORKTIMES)」紙の4面において、旧満州での唯一の日本人公墓である「方正日本人公墓」のことなどについてのかなり大きな記事掲載がありました。私がこのことを知ったのは、満蒙開拓平和記念館にも来館されたことのある九州在住の建築関係のお仕事の方が中国出張の際に乗った飛行機の機内紙として手にした「ニューヨーク・タイムズ」の中にこの記事掲載があるのを見つけ、すぐに私に送ってきてくれたからでした。その記事を手にして大変驚きました。しかし私は全く英語はダメなので、厚かましいながら、アメリカ在住のポール邦昭丸山さん(言うまでもなくドラマ『どこにもない国』の原作者の方です)にお願いして邦訳して頂きました。大変有り難いことです。また当記念館職員の島崎友美さん(東京外語大大学院英文科卒)にも見て頂き、これをまとめると概ね以下の通りの内容でした。一部は当方の意訳、補足等も含みますのでご了承下さい。 /// 続きは本誌ご参照
Japanese ties bring wealth and hatred104
Karoline KAN     転載元:THE NEW YORK TIMES(2018年5月18日付)
At the end of a narrow road inFangzheng, a remote town in northeasternChina, next to a hushed forest ofbirch and pine trees, stands the Jockediron gate of the Sino-Japanese FriendshipGarden. /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓平和記念館「セミナー棟」増築について(ご支援のお願い)105
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館館長)
まずは当満蒙開拓平和記念館に対して「方正友好交流の会」ご関係の皆様方等始め多くの皆様方よりの多大なるご支援、ご理解を賜っておりますことに厚く御礼を申し上げます。当記念館は多くの皆様方等のご支援を受けて平成25年4月に開館、お陰様を持ちまして今年4月で開館満5年となりました。この間、全国各地から年間3万人前後の皆さんが来館され、開館以来の現在までの来館者数は155,249人となっています(11月26日現在)。これまでのご支援等、本当にありがとうございます。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓苦難の歴史―夢見た農民の戦中戦後 長野県の資料館から伝える107
寺沢秀文     転載元:日本経済新聞(2018年8月6日付)
1945年8月9日未明、ソ連軍は突如国境を越えて満州(中国東北部)に進軍、日本軍が「後退」して無防備な開拓団の村を次々と襲った。女性や子供、老人は逃げ惑い、集団自決に追い込まれた開拓団もあった。 /// 続きは本誌ご参照
『大八浪開拓団写真集』発刊さる!108
方正友好交流の会
長野県泰阜村が分村として旧満州に「大八浪開拓団」を送り出したが、その記録写真が(B5判)がこの10月発刊された。写真集の構成は、第1章が入植~戦後、第2章が訪中、第3章が引揚者大会、第4章が一時帰国、第5章が永住~帰国となっている。 /// 続きは本誌ご参照
日中の未来へ 憎しみ絶つ―81年前の通州事件 肉親殺された姉妹「平和でなければ」109
大久保真紀(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2018年7月23日付)
81年前の7月29日、中国・北京近くの小都市・通州で、日本人と朝鮮人の居留民200人以上が中国人部隊の保安隊に殺害された。「通州事件」は当時、日本国内の反中感情をあおり、軍部への支持を決定づけたと言われる。いまも「中国人による残虐行為」として右派に言及されるが、肉親を亡くした姉妹は「憎しみをあおり立てるのは意味がない」と語る。 /// 続きは本誌ご参照
戦後73年・20台記者が受け継ぐ戦争:満州敗走 母子救えず―「罪ない市民犠牲 おかしい」 元関東軍歩兵 稲川寅男さん(94)110
大島宏一郎(東京新聞整理部)     転載元:東京新聞(2018年8月11日付)
「円匙でタコツボを掘ってね。ここが自分の死に場所になると思ったよ」。東京都江戸川区の稲川寅男さん(94)の自宅を訪れた私は、聞き慣れない言葉に少し戸惑った。入社四年目で初めてとなる戦争体験の取材。スコップ(円匙)で縦穴(タコツボ)を掘り、ソ連軍との戦闘を迎えた七十三年前の夏の体験に、じっと耳を傾けた。 /// 続きは本誌ご参照
平成の天皇 戦争と平和[4]:硫黄島慰霊 悲劇に光―満蒙開拓民にも思い111
読売新聞     転載元:読売新聞(2018年8月12日付)
「水がなくて大変苦労されたようですね」。天皇、皇后両陛下は1994年2月、硫黄島の戦記「何も語らなかった青春」の著者、多田実さん(2006年死去)を御所に招き、島での体験談に耳を傾けられた。硫黄島は45年2月、米軍の上陸が始まり、約2万人が玉砕した。負傷して本土に戻っていて命を救われた多田さんは、元学徒兵や遺族ら約450人の協力を得て、壮絶な戦いの真実を伝える本を93年に出版した。 /// 続きは本誌ご参照
記者の目:満蒙開拓団の実態調査公文書―保存と公開 国の責任112
佐藤良一(毎日新聞米沢通信部)     転載元:毎日新聞(2018年9月28日付)
日本が1932~45年、旧満州(現中国東北部)に農業移民として送り込んだ推計約27万人の「満蒙開拓団」について、戦後に都道府県が実施した全国実態調査の資料が、14道府県で廃棄されるか所在不明となっている実情が、毎日新聞の全国アンケートで明らかになった。資料は団長らの証言や記録を基にしたもので、逃避行中に集団自決などを迫られた開拓団の悲劇を知る上で、唯一とも言っていい貴重な1次資料だ。国策の過ちを二度と繰り返さないために後世へ残し、活用していくべきだ。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州育ちの原罪意識113
山田洋次(映画監督)     転載元:東京新聞(2018年11月8日付)
一九三〇年代の終わり、現在の中国東北部、旧満州育ちの八歳のぼくが初めて見た日本の印象は今も鮮明である。大連から三日間の船旅を終えて関門海峡で夜が明けると、一望千里の広漠たる平野の満州の風景とは全く違って、海岸からすぐに山が始まる。その山々が鬱蒼たる緑に覆われていて、山腹のレールの上を汽車が煙を吐きながら家々の軒をかすめるようにして器用に走っているのにあきれ、そして港や町の通りに人がいっぱいいる光景に驚いた。「あの人たちみんな日本人?」当たり前でしょう、ここは日本なのよと母親が答えたが、波止場をよく見ると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で重い大八車を引いたりする人たちがいる。 /// 続きは本誌ご参照
家族のこと話そう:おふくろの尊い決断114
森田拳次(漫画家)     転載元:東京新聞(2018年8月26日付)
生まれてすぐに旧満州(中国東北部)の奉天(現・瀋陽)に渡り、両親と四つ下の弟の四人家族でした。おやじは関東軍に納めるかばんなどを作る仕事をしていましたが、終戦近くになると召集され、残ったおふくろが家を守ることになりました。 /// 続きは本誌ご参照
この人に聞きたい:満州引き揚げ、一家救った中国人―やっと捜しあてた恩人の娘さん 思いでの毛布抱き涙 ちばてつや(漫画家)115
大塚武治(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗・日曜版(2018年11月11日付)
「あしたのジョー」など数多くのヒット作を持つ漫画家ちばてつやさん(79)。その原点には、命がけで一家を救ってくれた、ある中国人の友情がありました。62年の漫画家人生を聞きました。 /// 続きは本誌ご参照
記者の目:北朝鮮 消え行く日本人の歴史―「棄民の悲劇」知ってほしい116
井上卓弥(毎日新聞東京学芸部)     転載元:毎日新聞(2018年10月10日付)
戦前の国策で旧満州(現中国東北部)に送られた満蒙開拓団の実態を伝える資料の保存と公開を国に求めた9月28日の「記者の目」に深い共感を覚えた。敗戦直前、侵攻したソ連軍の標的となり、開拓団員約27万人中3割の8万人が命を落とした。集団自決を伴う悲劇は残留孤児の帰還などを通じて知られているが、十分な資料は公開されず、一部は廃棄されたという。 /// 続きは本誌ご参照
学徒兵の声 後世に:3395人動員の法政大 冊子を作成―戦友ごと僚船撃沈・特攻、出撃できず生き残る117
永井靖二(朝日新聞編集委員)     転載元:朝日新聞(2018年5月28日付)
太平洋戦争末期に、学業を中断させられて軍隊へ召集を受けた元学徒兵ら45人の証言集を、このほど法政大学(東京)が6年がかりでまとめた。戦友の最期、特攻の生死の分かれ目、軍隊内の理不尽な暴力など、70年以上を経た今こそ後世へ残したい逸話を収録した。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:旧満州からの日本人引き揚げを描いた中国人画家・王希奇さん(58)118
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年10月4日付)
「絵の中の彼らを、ふるさとに送り返すことができてうれしい」。旧満州の葫蘆島(現・中国遼寧省葫蘆島)から戦後の混乱の中で帰国する人々を描いた「一九四六」が、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)で12月2日まで展示される。 /// 続きは本誌ご参照
ひと:戦時の性暴力を描く映画「太陽がほしい」で受賞を重ねる・班忠義さん(60)118
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2018年10月26日付)
「太陽がほしい」。日中戦争中、真っ暗な部屋に監禁されて旧日本軍兵士に強姦された中国人女性が発した言葉だ。監督として、そんなタイトルのドキュメンタリーを撮り、戦時の性暴力被害を受けた彼女たちの人生を描いた。 /// 続きは本誌ご参照
中国語の絵物語『鑑真和尚』に想う119
陳寛
先月、上海人民美術出版社1981年4月第3版の絵物語『鑑真和尚』を手にした。『李白』・『白居易』・『王安石』等歴史的人物を主人公にした絵物語中の一冊だ。縦9㎝横12㎝厚み0.4㎝の小型サイズもので、簡単に見終えられるのだが、目を患っていた私は、小文字を嫌って見ようともしなかった。8月中旬の施術後に、視力が落ち着いてきた9月半ばのある日、何気なく『鑑真和尚』を手に取ってみた。読み始めるや一気に読み進み、日本留学僧栄叡が亡くなった件を読むに至っては知らず識らず熱い想いが込み上げてきた。 /// 続きは本誌ご参照
古代における渡来人の活躍―拙著『ディアスポラ、高麗への道』刊行に寄せて121
岩下壽之
先月(9月)、『ディアスポラ、高麗への道』(鳥影社)を刊行した。「遣唐使三部作」の最終巻『定恵、百済人に毒殺さる』を上梓してから三年ぶりである。この間、古代朝鮮への思いは増幅し続け、ついに今回は「渡来人」と呼ばれる古代の朝鮮半島からの移住民、亡命者を「ディアスポラ」の視点から明らかにすることにした。論じるのではなく描き出すことにしたのは、史料の少ない古代の生活を再現するには「小説」という形が最もふさわしいと思ったからである。この点ではこれまでの創作活動の継承でもある。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い126
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記127
大類善啓
周知のように滿洲への移民は国策として進められた。とりわけ、ある時期からは村などの地域単位で満洲へ渡る「分村・分郷」という形で進行していった。国や県などが市町村などに対して移民させる人数を割り当て、半ば強制的に渡満させた。 /// 続きは本誌ご参照
 
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