方正友好交流の会
トップ | 会報『星火方正』 | 規約・役員 | 関連書籍 | 入会案内
 
星火方正
全てから題名・転載元著者要旨・書き出し
 
巻号・発行年月指定

[ 全ての既刊号を表示 ]

第25号(2017年12月発行) / 1冊44記事 を表示しています。

  第25号(2017年12月発行) 第25号(2017年12月発行)表紙

自国中心主義を超えるために―「満洲国」の歴史から何をどのように学ぶのか1
木村護郎クリストフ
学生時代、私は縁あって、もともと、満洲に在住する日本人の子弟が東京で勉学する際の学生寮として開設された東京・世田谷の「春風学寮」(1929年設立)に住んでいました。2017年夏、建寮90周年を前にした、寮のルーツを探る研修旅行に参加して、初めて中国東北部を訪れました。この研修旅行は、日露戦争の「輝かしい」(ように当時は見えたかもしれないけれど実はもう相当無理があった)日本の勝利の戦跡から、「満洲国」の成立と消滅までをたどるものでした。 /// 続きは本誌ご参照
沖縄・石垣島から見た「満州」とは―清明節中国旧「満州」謝恩と巡礼の旅で学んだこと4
大浜敏夫
私は去る3月31日から4月5日にかけて表題の旅行企画に参加することができた。この企画に応募しようと思い立ったのは、私の住む石垣島(市)でも「日本復帰」後40年近くも続いてきた革新市政から2010年4月保守市政に替わり、2011年中学校社会科教科書採択において、最も保守色が強いといわれる育鵬社版公民教科書が採択された。それに反発した隣の竹富町が東京書籍版公民教科書を国の教科書無償措置法の恩恵を受けずに採択・使用するという、同一採択地区に2社の教科書が使用されるという全国的にも珍しい状況を招来した。 /// 続きは本誌ご参照
インパール戦争と父・中野信夫―NHKテレビ『戦慄の記録インパール』を見て、改めて思う8
中野圭子
私の父は1910年生まれ、1941年12月31才の時、赤紙がきて軍医として応召しました。その翌年2月に生まれた私が4才の夏に父は復員してきました。初めて父と対面してから半年ほどは、父と2人でいるのが怖かったのを断片的なシーンとして覚えています。父に赤紙が来たときは自宅で眼科を開業して6年が経過していました。応召後しばらくは京都伏見にある陸軍病院へ通い、戦場で必須の外科の再研修を受けていたようです。そのあと、奈良の138連隊と上海で合流、海路で台湾、シンガポールをまわって北上、クアラルンプールの北、クワラクブで上陸、ここから陸路でビルマ(ミャンマー)へ入ったと聞いています。 /// 続きは本誌ご参照
さようなら、奥村正雄さん―「方正友好交流の会」発足以前からの同志の逝去を悼む12
大類善啓
今年(2017年)6月18日、本会参与として方正友好交流の会発足時点から主導的に活動されていた奥村正雄さんが亡くなられた。1931(昭和6)年生まれ、享年86歳だった。4月に急性白血病の診断を受けたという。そういうことは全く知らなかった。本人の希望で家族葬として営まれたと先日、信子夫人から聞いた。 /// 続きは本誌ご参照
日本人の魂の巡礼の聖地に方正―この言葉かみしめ14
奥村正雄(フリージャーナリスト)
奥村さんがこの会を手伝うようになったのは1992年でしたか? /// 続きは本誌ご参照
にいがた時評:三波春夫と旧満州―命懸けの逃避行 歌忘れず15
奥村正雄(方正友好交流の会顧問)
終戟前後、満州開拓団を襲った悲劇の数々を取材していた私は、四年前の夏、新潟市東堀で染物屋を営業しておられた野口幸次郎さん(84)を新潟市国際課の近藤淳一さんから紹介され、お話を聞く機会があったが、その中に三波春夫のことがでてきた。 /// 続きは本誌ご参照
今、思うこと――1960年代から日中国交正常化への道16
西園寺一晃
《解説》本講演は今年、2017年6月11日(日)第13回方正友好交流の会総会後の記念講演の採録である、西園寺一晃(さいおんじ・かずてる)さんは1942年生まれ。日中が国交正常化する以前の1958年、民間公使として一家で北京に移住された西園寺公一氏の長男である。10年間を中国で過ごされた後、帰国され欧州に遊学後、朝日新聞社に入社。現在、東日本国際大学客員教授、北京大学客員教授。著書に『青春の北京北京留学の十年』『中国辺境をゆく』『鄧穎超―妻として同志として』『「周恩来と池田大作」の一期一会』などがある。今回の総会及び講演会は、東京新聞が開催の告知を掲載してくれたこともあり会員や本誌の読者でない方も聴衆として参加された。その中の一人から「採録されるに当たっては、ぜひ二、三行でいいから、文革時代のことを追加してほしい」と、西園寺さんと大類両名宛に葉書が来た。西園寺さんにこの葉書のコピーを送ったところ、西園寺さんから「文革の時代のことを紹介するには二、三行では無理であのので、今回は触れないでおく」という連絡をもらった。私も、文革時代の体験を書くには、たぶんこの講演以上の枚数を費やさないと紹介することは難しいと思う。文革当時、北京大学に在学中であった西園寺さん故、当時の話そして今、文革をどう振り返るかなど、とても興味ある話が聞けそうであるが、別の機会にお話していただければと思っている。(大類) /// 続きは本誌ご参照
日中の歴史は何のために学び、何に活かすのか―西園寺一晃先生の講演を聴いて34
田村美佳
2017年6月11日、方正友好交流の会が主催する西園寺一晃先生の講演を聴きに中央大学駿河台記念館に足を運んだ。会場に入り周りを見渡すと、年配の方々が楽しそうに歓談されている。満蒙に関心を持つ方々の集まりだろう。ある種、会場は同窓会化していて、満蒙とは一切のルーツを介さない自分がこの場に居合わすのはいささか場違いであるような気がした。さらに最悪なのは、時おり飛び交う北京語を聴いては「上手だな」などと彼らのルーツも考えずに自分の北京語が上達しないのを嘆き、不謹慎な発想すら抱いていたことだ。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係の近現代史を知っておこう―西園寺一晃講演に触発されて41
永野俊
いま日本と中国では共に相手国に対する反感は強く、その割合は両国とも70~90%に達するといわれる。日本の中国への反感は若年層、中年層が両国関係の近現代史を十分に理解していないことが大きな要因であるといわれる。年配の方々はこの歴史をよくご存知と思うが若い世代の方々はご存知でない方も多いと思うので概略を説明しておこう。 /// 続きは本誌ご参照
「泰阜村」と「方正県」友好提携から20周年―長野県「泰阜村」と黒竜江省ハルビン市「方正県」友好提携20年の歩み42
小林勝人(飯田日中友好協会理事長)
方正県といえば「方正日本人公墓」のある日本人として忘れる事の出来ない、いや忘れてはならない加害と、被害の重い歴史を認識する大事な場所である。一方、泰阜村といえば、NHKの「忘れられた女たち」の放送を思い出す人が多いと思われるが、長野県の山村で、かつて多くの満蒙開拓団を送り出した村として思い出される山村である。 /// 続きは本誌ご参照
大日向開拓地 両陛下が訪問―旧満州引き揚げ者入植46
日本経済新聞     転載元:日本経済新聞(2017年8月14日付)
長野県軽井沢町で静養中の天皇、皇后両陛下は23日、同町の大日向開拓地を訪問された。同開拓地は旧満州(中国東北部)に渡った人たちが戦後に入植した地区。両陛下は昭和天皇が1947年の戦後全国巡幸で同地区を訪れたことを詠んだ歌碑に立ち寄った後、レタス畑を散策された。 /// 続きは本誌ご参照
泰阜で式典草の根交流今後も―満蒙開拓の縁中国・方正県と友好20周年46
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年11月17日付)
下伊那郡泰阜村は16日、旧満州(中国東北部)に分村移民で開拓団員を送り出した緒緯がある中国墨黒江省方正県との友好提携20周年を祝う式典を村内で開いた。帰国者を含む関係者約80人が出席。松島貞治村長はあいさつで「平和の尊さは草の根の交流から学んでいく必要がある」と述べ、民間交流の重要性を訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
吉林省水曲柳・大日向両村旧開拓地を訪問して47
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
去る5月27日より31日の5日間、旧満州の吉林省「水曲柳」並びに「大日向村」の旧開拓地等を「水曲柳等友好訪中団」(団長は澤柳忠司水曲柳会会長。団員27名)が訪問した。今回訪ねた「水曲柳開拓団」は私事ながら当方の両親がかつて住んだ開拓の村でもあり、当方自身も今回で7回目の訪問となった。この水曲柳開拓団からの引揚者やその関係者等で組織する戦後親睦組織「水曲柳会」では日中国交回復後、今回で11回目となる現地訪問団を送っている。今回の訪中は、これまでの水曲柳会会員のみを中心とした水曲柳訪問とは異なり、現地で隣村の開拓団であった「大日向村開拓団」の元開拓団員の皆さん等3人や一般市民の皆さん等をも含めての、久々の27名という大所帯での訪中となった。当方が初めて水曲柳の地を訪れたのは1996年(平成8年)のことであり、前回の2010年訪問からは7年ぶりの訪問となったが、20年前、そして前回と比べても水曲柳等の農村もかなり変化してきていることを実感したところである。 /// 続きは本誌ご参照
旧満州に2つの開拓団 現地を訪ねて48
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長)     転載元:日刊「南信州」における2017年6月25日より連載8回
去る5月27日より31日の5日間、水曲柳会(後述)を中心とした「水曲柳等友訪中団」(団長・澤柳忠司水曲柳会会長、団員27名)は水曲柳など旧満州の旧開拓地等を訪中し、多くの成果を上げて帰国した。今回の訪中は、最近では極めて少なくなった旧満州の開拓地を訪ねる旅であると共に、この飯田・下伊那地域を代表する満蒙開拓団の―つである「水友曲柳開拓団」と、旧満州への最初の分村開拓団となった「大日向村開拓団」の元開拓団員等が共に旧開拓地等を訪ねたという極めて意義ある訪中でもあった。私事ながら、亡き両親が水曲柳開拓団員であったこと等から、水曲柳開拓団の戦後組織である「水曲柳会」の事務局長を務める当方が今回の訪中団の事務局長も務めさせて頂いたので、この意義ある訪中について改めてその概要を報告させて頂きたいと思う。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和通信」を発刊して56
末広一郎
「星火方正」に原稿を書くに当たり、御礼のご挨拶を申し上げます。私、末広一郎は元満洲開拓青年義勇隊、嫩のん江こう大訓練所第三次渡辺中隊にかつて所属しており、「嫩訓八のんくんや洲しま会かいだより」を40数年間に亘り、編集発刊と発送を、12号から54号まで継続して行ってきました。今年4月8日をもちまして嫩訓八洲会は終焉、解散となりました。そこで、新たに「満蒙開拓平和通信」を発刊しようと思い立ち、つい最近、第一号を発刊いたしました。(58頁に表紙を紹介) /// 続きは本誌ご参照
『満州・奇跡の脱出』がついにテレビドラマ化!59
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館)
冒頭から私事にて恐縮ながら、1944年(昭和19年)、「大陸の花嫁」として満蒙開拓団員となり旧満州へと渡満した私の亡き母は、敗戦の翌年の1946年(昭和21年)7月、ようやく日本へと引き揚げてこられた。終戦の年、新京(現長春)の避難民収容所での越冬生活の中でまだ生後10ヶ月の長男を失い、夫も終戦直前の「根こそぎ動員」による召集、出征でその生死すらも判らず、実はシベリアに捕虜抑留されていることも知らない中での失意での帰国であった。その引き揚げ時の旧満州からの出港地は「葫蘆島(ころとう)」という港であった。 /// 続きは本誌ご参照
語り部思いやる 陛下の歌碑序幕65
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年11月24日付)
下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館は23日、天皇陛下の和歌を刻んだ歌碑の除幕式を開いた。天皇、皇后両陛下は昨年11月に同館を訪問し、開拓団員や青少年義勇軍だった「語り部」3人と懇談された。旧満州(中国東北部)での逃避行の体験などを聞き、その際の思いを和歌に詠んでいた。同館は「何らか形で記憶に残したい」と敷地に歌碑を建立した。 /// 続きは本誌ご参照
天皇陛下の歌碑を建立―満蒙開拓平和記念館 昨秋の来館を記念し66
南信州新聞     転載元:南信州新聞(2017年11月25日付)
阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館で23日、天皇皇后両陛下の来訪を記念した碑の除幕式が開かれた。碑には天皇陛下が来訪時の思いを詠まれた「戦の終りし後の難き日々を面おだやかに開拓者語る」との歌が刻まれた。 /// 続きは本誌ご参照
象徴天皇と平成:負の歴史にも向き合い―満蒙開拓平和記念館副館長・寺沢秀文さん67
小松田健一(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年12月4日付)
「自決するため仲間と石で殴り合ったが、自分だけ生き残った」。厳しい表情で壮絶な体験を話す満蒙開拓団の元団員たちに、天皇陛下は言葉をかけられた。「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり語り継いでいくことは、とても大切だと思います」 /// 続きは本誌ご参照
回想―チチハルから日本へ引き揚げてきた私68
土橋貞夫
玉音放送はチチハルの官舎の庭で聞いたように思う。国民学校3年生だった私は夏休み中だったが、この日を境に「満州」での学校生活は終わった。8月15日から程なく内地送還の通達があった。「手荷物を持って駅に集合せよ」「集合は延期」「しばらく駅で待機せよ」・・・。結局、引き揚げは一年後となった。 /// 続きは本誌ご参照
中高生たちに歴史を伝えなければいけない―「満蒙開拓平和記念館」見学で思う70
田井光枝
私は昭和10年4月に生まれた。戦前生まれということだ。東京は深川生まれだが太平洋戦争の戦況が厳しくなり、学童が地方に疎開させられるようになると茨城県水戸市近在の、電気も通じてない小さな村の母の実家に妹と弟と共に預けられた。国民学校3年生の2学期から5年生修了までの2年半をそこで過ごした。 /// 続きは本誌ご参照
イスラエル建国を連想させた“満洲国”建国―「満蒙開拓平和記念館」見学で考えたこと74
有為楠君代
「満蒙開拓平和記念館」のことは、随分前に耳にしたことがあります。多分、開館を伝えるニュースだったかと思います。それ以来、ずっと一度見学したいと願ってはおりましたが、機会がなく何年も過ぎてしまいました。ところが、今回偶然に友人たちと一緒に見学できることになり、しかも希望者が、現地集合の形で十数人になったので、副館長の寺沢秀文氏に、展示品の説明をして頂けることになりました。自分達だけで見学したのでは見過ごしてしまうような点も、丁寧にご説明頂いて、とても勉強になりました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓の前で思う―公墓訪問の経緯について77
野村正彦
我々は、東京のある大学で中国を中心に日本・アジアの歴史を勉強したゼミナールの有志が集まって10年前から、勉強会や手作りの中国歴史探訪旅行をしているグループであります。今年で勉強会32回、旅行は毎年10名前後で9回目となりました。中国旅行は、西域を除くほぼ主要地域を巡りました。今回の旅行は8年前に訪れた中国東北地方を再度訪問しようとのことで、企画したわけであります。前回は大連・旅順・瀋陽・長春・ハルビン各市内だけでしたので、ハルビン市を基点としてさらに遠方まで足を延ばして訪問することにし、7月23日から31日までの8泊9日の旅行でした。 /// 続きは本誌ご参照
方正で過ごした3日間79
伊藤洋平
私は、2012年9月から2013年7月まで公益社団法人日中友好協会の公費留学生として北京に留学していました。中国語を学ぶために中国に行ったことから、旅行に行くときには必ず中国人の友人がいるところにすることに決めていました。そんな折、日本にいるときに知り合った友人が中国に帰っていると知り、その友人を訪ねたところ、その友人はなんと方正県の人だったのです。今回は、少し前の話になりますが、2013年5月にハルビン経由で方正県に行った時のことをお伝えしたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
「平和の時代のベチューイン」藤原長作と「旅日僑郷」方正県を訪ねて83
岡田実(拓殖大学国際学部教授)
今年の夏頃、北京大学に留学されている山口直樹さんが2008年に立ち上げられた「北京日本人学術交流会」が、2017年10月でいよいよ300回を迎えられるという朗報をいただいた。年間約30回、月2~3回のペースで毎回講師を招き、10年近く続けられてこられた快挙である。筆者は、国際協力機構(JICA)中国事務所に勤務していた2011年6月、山口さんから誘われ、同会の発足三周年記念の集まりで「日中関係とODA~なぜ日本は対中政府開発援助を開始したのか?」と題した報告を行う機会があった。 /// 続きは本誌ご参照
記録映画『葛根廟事件の証言』が完成した99
大島満吉
旧満州で起きた様々な事件の中で、ソ連軍による民間人の虐殺はこの葛根廟事件が最大と云えます。この事件は、終戦前日の8月14日に事件は起きました。場所は満州国の西側にある興安南省興安街です。住民約1300人が、ソ連の開戦を知って避難行動を開始したのですが大惨事となりました。 /// 続きは本誌ご参照
映画「葛根廟事件の証言」を制作して―戦後70年を経てなお、多くの人が知らない事実がある105
田上龍一
太平洋戦争が終結する前日の昭和20(1945)年8月14日、旧満州(現中国東北部)から引揚げ避難中の日本人の一団が、ラマ教寺院葛根廟(内モンゴル自治区)付近で旧ソ連軍の戦車隊の襲撃にあい、1,000人以上が死亡した。生存者は百数十人にすぎないとされ、犠牲者の多くは女性と子供だった。この「葛根廟事件」は、日本敗戦の混乱時に満州で日本人が遭遇した惨劇の中でも、最も犠牲者の多いものだったといわれている。「星火方正」の読者には事件をご存じの方は多いと思われるが、一般的にはそれほど認知されていないのではなかろうか。 /// 続きは本誌ご参照
私を動かす大きな力―中国残留孤児問題への取り組み、その一年をふりかえる107
中島幼八
私だけでなく、中国残留孤児の体験を持つどの人も中国に足を向けて寝られない気持ちを強く持っていると思う。とりわけ近年、日中の国民感情が極めて悪化するなかで、中国を曲解する言論には黙って見過ごすわけにはいかない。意地でも、加害者側の私たちに命を与えてくれた中国人養父母の心情をかばいたくなる。あの戦争で祖国に見捨てられた私たちにとって、中国こそ自分たちを育んでくれた故郷である。従って、この歳になると、ひと一倍ふるさとや育ての親を思い、感謝しているのだ。この一年をふりかえる時、それが私を動かす大きな力であった。 /// 続きは本誌ご参照
忘れられない“満洲”の思い出―残留孤児フォーラムに参加して111
大津弘子
私は中国残留孤児ではないのですが、この会に出てみたいなア・・・妙に懐かしさを感じました。満鉄社員であった父から、シヘイガイ(四平街?私の生まれたところらしい?)、ハルピン、奉天、大連等、幼い耳にしみ込んでいたのかもしれません。 /// 続きは本誌ご参照
「赦された戦犯たち」の歴史113
芹沢昇雄
「中帰連」の正式名称は「中国帰還者連絡会」と言います。敗戦後シベリアに抑留された約60万人(1割が犠牲)の中から、中華人民共和国(以下、中国)独立翌年の1950年に、旧ソ連から中国に「戦犯」として引き渡された969人が「撫順戦犯管理所」に収容されました。また敗戦後も八路軍と戦った一部の元兵士など140人は山西省の「太原戦犯管理所」にも収容されていました。この1000人余りが帰国翌年の1957年に反戦平和と日中友好を願って「中帰連」を組織し、高齢のため解散した2002年まで自ら体験した加害や虐殺などを証言して来た団体です。 /// 続きは本誌ご参照
白西紳一郎さんを偲んで118
横井幸夫(元東レ株式会社)
日中協会理事長の白西紳一郎さん(以下、白西さん)が10月8日に亡くなった。招かれて行った旅先・大阪での急逝だった。私は亡くなる6日前の10月2日に東京の中国文化センターで開かれた「中日国交正常化45周年記念情と形~四人のまなざし~」という展覧会の開会式で白西さんと会って、話を交わしたばかりだった。知りあって10年以上になる。初めて会ったのは何時で、何処だかは忘れてしまった。 /// 続きは本誌ご参照
白西紳一郎さんの思い出118
大類善啓
どういうきっかけでこういう話になったのか詳細は忘れた。電話で、右翼の巨魁と言われた田中清玄の話になった。白西さんは、戦前の武装共産党時代の闘士だった田中清玄がコミンテルン時代、鄧小平と付き合いがあったという話をされた。その関係で、鄧小平が来日した時、田中清玄と因縁浅からぬ山口組の大親分、田岡一雄との関係で、鄧小平のボデイガードを山口組がやったという話である。その話を聞いて驚いた私に白西さんは、「日中関係にはいろいろとあるんだよ」と言われたので、ぜひメモワールとして残してほしいと言ったが、「それはなかなか書けないよ」との返事だった。 /// 続きは本誌ご参照
丹羽宇一郎著『戦争の大問題』を読んで119
大類善啓(方正友好交流の会事務局長・元本紙編集長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2017年10月1日)
北朝鮮の核実験が強行され、日本でも一部の世論から「制裁を強化せよ」といった強硬論が台頭している。そのような危機的な状況を煽る中、本書刊行の意味は大きい。 /// 続きは本誌ご参照
編集手帳119
読売新聞     転載元:読売新聞(2017年9月25日付朝刊)
『ひとりの日本兵』という詩がある。日中戦争の最中、銃弾に斃れた日本兵が、中国の農民によって手厚く埋葬される情景が描かれている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:満蒙開拓団 ソ連兵への「性接待」―戦争の惨めさを知った120
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年7月2日付朝刊)
戦前、旧満州国(現中国東北部)に国策として送り出され、敗戦後の逃避行で大勢の犠牲者を出した「満蒙開拓団」。そこには敗戦直後、開拓団を守るためとして、ソ連兵に対する「性接待」を強いられた若い女性たちがいた。この事実は開拓団員の引き揚げ後も長く封印され続けてきた。しかし、少なからずの被害者が亡くなリ、残る女性たちも高齢となった。そうした女性たちが最近、重い口を開き始めた。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:中国人女性に再び光―李徳全氏 国交正常化前 邦人戦犯帰国に尽力122
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年11月19日付朝刊)
日本人戦犯の帰国に尽力した中国人女性がいたことを今、記憶する人は多くないだろう。中国赤十字会会長だった李徳全氏(1896~1972)。日中国交正常化から45年の今年、その功績に再び光を当てる取り組みが日中双方で広がっている。 /// 続きは本誌ご参照
こちら特報部:残留孤児に寄り添う介護を―中国語で対応 民間施設乗り出す123
佐藤大(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年10月15日付)
中国残留孤児は、長年の苦労の末に帰国を果たした後も、言葉の壁や生活習慣の違いから地域で孤立する人も少なくない。こうした帰国者は「老い」を迎え、介護が必要になると、ますます孤立を深めがちであることから、この状況を少しでも改善しようと、帰国者たちを対象にした民間の有志の介護施設が登場し始めている。 /// 続きは本誌ご参照
満州開拓民の悲劇 追う―集団自決の地 撮る124
読売新聞     転載元:読売新聞(2017年9月27日付夕刊)
終戦前後の混乱期に満州(現中国東北部)で集団自決に追い込まれた開拓民の悲劇を伝えようと、兵庫県尼崎市の写真家・宗景正さん(70)が、犠牲者の眠る地をカメラに収め続けている。帰郷を果たせなかった人々の無念をしのび、10年前から撮りためた写真は3万枚以上。30日には報告集会を開き、撮影した写真とともに現地の経験を語り継ぐ。 /// 続きは本誌ご参照
極東ロシアでアイヌ人に出会う―ウラジオストク、ハバロフスクへの旅125
大類善啓
畏友、石井昭男さんの誘いに乗って、この9月17日から24日までの1週間、シベリアのウラジオストクとハバロフスクへ行ってきた。石井さんは、人権やマイノリティーをテーマに関する長年の出版活動の功績で、アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を2008年に受賞された方である。 /// 続きは本誌ご参照
日中交流 つないだ桜満開130
浅井正智(東京新聞)     転載元:東京新聞(2017年4月10日付)
中国江蘇省の無錫市で、日中の民間団体が桜の植樹を始めて、今年で三十周年を迎えた。当初は千五百本だった桜の木は、今では三万本にも達し、無錫は中国随一の桜の名所と言われるまでになった。日中関係がぎくしゃくした時も途切れることなく続いてきた交流は、次の世代へと引き継がれていく。 /// 続きは本誌ご参照
方正県外事僑務弁公室・黄力新主任来訪131
大類善啓
去る9月28日(木)、方正県外事僑務弁公室黄力新主任らの表敬訪問があった。私と参与の牧野八郎さんが対応した。黄主任のお名前はもちろん承知していたが、氏が主任に就任してからは残念ながら方正を訪問しておらず、お会いするのは私も牧野さんも初めてである。 /// 続きは本誌ご参照
日本へ引き揚げ 中国人画家描く―幅20メートルの大作、きょうから初公開132
平賀拓哉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2017年9月28日付)
日中戦争後の混乱の中、中国遼寧省の葫蘆島から日本に引き揚げる人々を描いた幅20メートルの絵画を、同省瀋陽市の画家王希奇さん(57)が完成させた。中国で当時の日本人の苦難をテーマに描いた作品は異例。東京都港区の東京美術倶楽部で28日から10月5日まで、初公開される。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い133
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記134
大類善啓
「京大俳句」は、1933年に京都大学関係の若手俳人を中心に創刊され、自由主義を重んじ、実作・理論の両面から無季俳句や戦争俳句などの新しい俳句に取り組んだ俳句誌である。しかし1940年、厳しい言論弾圧(京大俳句事件)により主要同人が検挙され、第86号をもって廃刊に追い込まれた。弾圧されるまでは、文学界を席巻する大きな力になっていたという。 /// 続きは本誌ご参照
 
トップ | 会報『星火方正』 | 規約・役員 | 関連書籍 | 入会案内
「方正友好交流の会」事務局

〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-6 日本分譲住宅会館4F 一般社団法人日中科学技術文化センター内
Tel: 03-3295-0411 Fax: 03-3295-0400 E-mail: ohrui@jcst.or.jp