方正友好交流の会
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星火方正
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第24号(2017年5月発行) / 1冊26記事 を表示しています。

  第24号(2017年5月発行) 第24号(2017年5月発行)表紙

天皇・皇后両陛下ご来館後のそれから1
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
昨年11月17日、天皇・皇后両陛下の「強いご希望」により、長野県阿智村にある我が満蒙開拓平和記念館にご来館頂いたのは、我々記念館関係者にとっても大変な驚きであった。それから約半年が過ぎ、今回、方正友好交流の会の大類事務局長から「両陛下ご来館後の記念館の様子等の後日談について一文を寄せて欲しい」とのご要請を頂き、敢えて筆を執った次第である。両陛下のご来館の経過、その時のご様子等については当誌の前号にても報告等させて頂いた通りであるも、両陛下のご来館は我々自身としても全く意外なことであった。両陛下が満蒙開拓についてご関心をお持ちであることは以前からお聞きしていたことではあるも、と言って我が記念館にまでお越し頂けるようなことはまずしばらくの間は無いだろうと勝手に思っていた節がある。 /// 続きは本誌ご参照
多摩『拓魂公苑』を知っていますか?9
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る4月9日、多摩市連光寺3丁目にある「拓魂公苑」にて今年も恒例の合同慰霊祭が行われた。この「拓魂公苑」については以前に当誌上でも触れたことがあったかも知れないも、改めて、全国規模では唯一の満蒙開拓の慰霊公園であるこの「拓魂公苑」について触れさせて頂きたいと思う。この「拓魂公苑」での合同慰霊祭は主催者がいなくなった今も有志の皆さんの手により毎年4月の第2日曜日に開催されており、今年も約150名程度の皆さんが全国各地から集まってこられた。当方も7~8年前から毎年参加させて頂いているが、その頃には300人ぐらいはいたと思われるも、高齢化等もあって年々参加者が減少してきているのは大変残念なところである。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙「記憶はつたえていく」―元義勇軍の人たちの交流組織解散へ16
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月9日付)
かつて満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州(中国東北部)に渡った人たちでつくり、全国に会員がいる交流組織「嫩訓八洲会」が、会員の高齢化や会員数の減少で解散することになった。県内出身者を含む会員14人が8日、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪れ、夜は安曇野市で最後の大会を開催。1972(昭和47)年からの活動に区切りを付けた。記念館の寺沢秀文副館長(63)によると、戦後70年余を経て、義勇軍や元開拓団員らの組織が解散するケースが目立つという。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓犠牲者悼む―東京・多摩県内関係者ら「拓魂祭」17
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月11日付)
全国各地から満州(現中国東北部)に渡った満蒙開拓団や青少年義勇軍の犠牲者を祭る東京都多摩市の「拓魂公苑」で9日、年1回の「拓魂祭」があった。敗戦後の混乱で命を落とした人らを慰霊する数々の碑が立ち、長野県を含む全国から約150人の関係者が集まり、雨にぬれた満開の桜の下で黙とうした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の歴史 阿智高生が学ぶ―地元の記念館見学18
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2017年4月11日付)
阿智高校(阿智村)の2年生約100人が10日、阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪ねた。10月に修学旅行で広島市の原爆ドームなどを見学する予定で、まずは地元に刻まれた戦争の歴史を勉強する狙い。初めて足を運んだ成都が多く、ボランティアガイドたちの話に静かに耳を傾けた。 /// 続きは本誌ご参照
謝恩と慰霊―清明節のハルビンで19
中島幼八
春寒がまだ残る中国の東北部、大連からハルビンまでの旅だったが、かつての「南満鉄道」に平行する斬新な高速鉄道の車窓から眺められる東北大平原の雄大さ、長春あたりの地平線にさしかかったときの夕日、心躍る感動はこの大陸でしか味わえないようだ。北上するにつれて、気温が上昇するなか、20度近くのハルビンでは、目の前の松花江がまだ厚い氷に閉ざされていた。大陸の北国の春も早足で収束されていくが、この季節の端境期に、日本から二つの訪中団、計41人が訪れた。 /// 続きは本誌ご参照
清明節の誓い23
北中一永(訪問団団長)
侵華日軍第731部隊罪証陳列館金成民館長、ならびにご臨席の皆様。始めに、本日、新しく立派になった罪証陳列館を訪問し、このように追悼式典を開催することができましたことを訪問団として感謝申し上げるしだいです。 /// 続きは本誌ご参照
南京虐殺紀念館を見学して24
望月信隆
昨年末に南京大虐殺紀念館を訪れました。大虐殺の歴史的事実を否定的にとらえようとする政治家やその追随者に疑問を感じていたからです。中国名、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館と、その別館として2015年に建設された利済巷慰安所旧址陳列館を訪ね、その感想を書かせていただきます。 /// 続きは本誌ご参照
銘柄米産地慶安県の真剣さー中国の「米どころ」を訪ねて思う26
佐藤喜作
東京の中央区日中友好協会の2回目の中国視察旅行を計画した。私は2014年に2回、中国東北農業大学、東北大学と黒龍江省農業科学院などの訪問でハルピンに行っている。今回は仕事を離れて観光を主体に計画されたと思っていた。一行9名は日本に居住する東方暁氏の計画により、2016年9月11日~14日の3泊4日の日程である。 /// 続きは本誌ご参照
ひとり、ぶらりと方正へ30
橋賀秀紀
成田からハルビンまで片道500円。中国の新興旅行会社を母体とする春秋航空日本の就航セールは鮮烈だった。往復総額でも5200円。これまで往復1万円以下で香港やソウル、マニラ、台北などに行ってきたがさすがにこの価格はない。しかし,時期は3月の初旬。ハルビン名物の氷祭りもメインのものは終了している。ではどこに行こうか…。そのなかで浮上してきたのが方正であった。 /// 続きは本誌ご参照
優れた師、有難き友―歩平先生の死を悼む(第1回)34
石金楷
2016年8月16日、私は東京からハルピンの実家へ帰った。空港へ一歩、降りたとたん、駆け寄ってきた友人の口から出た言葉が、2日前、歩平先生が病死された、という訃報だった。この信じられないニュースを耳にして、私は、辛く悲しい思いの中で、歩平先生との、さまざまな交流の思い出が胸にこみ上げてきた。歩平先生の原籍は北京である。1948年、北京でお生まれになった。生前、中国社会科学院近代史研究所所長、中日共同歴史研究委員会・中国側首席、中日関係史学会副会長をつとめられ、著名な歴史学者であり、中日問題の専門家であった。私が先生に初めてお目にかかったのは2001年である。この時、私はハルピン市日本残留孤児養父母連絡会(以下、連絡会と略称)の秘書長になったばかりだった。仕事の関係から連絡会は黒竜江省社会科学院歴史研究所と密接な交流関係にあった。 /// 続きは本誌ご参照
アフリカには1890年代からエスペランティストがいた!―第6回アフリカエスペラント大会に参加して36
田平正子
「今や国際主義は国家を前提とするからダメだ。今こそ、「我々は人類の一員だ」という思想、民族や国家への帰属を超えて、個としての人間の連帯と友愛が大事だと考えるエスペラントの創始者・ザメンホフの人類人主義Homaranismoが地球を救う」と、近年、力説する本誌編集長の大類善啓氏より、アフリカにもエスペランティストがいることを紹介してほしいと言われ、アフリカエスペラント大会に参加した模様をお伝えしよう。 /// 続きは本誌ご参照
子どもたちにこそ見せたい知らせたい国「コスタリカ」―未来の主権者を創る“平和ノーベル賞”ムーブメントを起こそう!39
千田優子
60代のうちに、外国行こう!そう思い立って、たまたま見つけたツアーでした。コスタリカは中米にある。面積は大体、北海道。人口は約500万人。うち100万近くは隣国ニカラグアの難民なのだそうだ。何?治安はどうなの?エコツーリズムの発祥の地。ちょっとパソコンで調べてみると、何?ワニが昼寝してる???アメリカ経由で、往きが2日、帰り2日の移動時間がかかり、中4日という旅行日程であった。つまり、遠い!はき慣れた靴を、が条件。ヤレヤレ。 /// 続きは本誌ご参照
大平外交哲学と対中国友好精神の復活42
凌星光     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2017年4月発行)
岸田文雄外相が昨年5月に訪中した際、李克強首相が大平正芳元首相を称賛する場面があったと報道された。(宏池会武井俊輔、小林史明両議員同行、5月7日付日経)それは1980年代の日中関係黄金時代への回帰を期待したものであり、大平政治哲学とその対中国外交を想い起し、当面の日中関係の改善に資したい。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係「大事なのは一人ひとり」―小澤征爾さん 語る45
今村優莉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2013年9月19日付朝刊)
世界的指揮者の小澤征爾さん(78)が、朝日新聞の取材に応じた。満州事変が姶まって、18日で82年になるのを前に、緊張が続く日中関係や、戦争体験に根ざす平和への思いを語った。小澤さんは旧満州(中国東北部)で生まれた。2010年に食道がんを手術。長期休養もあったが、今月7日まで長野県松本市で開かれたサイトウ・キネン・フェステイバル松本で、完全復活を印象づけた。「冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている」 /// 続きは本誌ご参照
中国残留の91歳 決意の帰郷―現地に家族 悩んだ末47
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2017年2月5日付朝刊)
昨年11月、岐阜県下呂町(現下呂市)出身の中国残留婦人、桂川きみさん(91)が三男夫妻を連れ、中国安徽省から祖国・日本に永住帰国した。90歳を超えての永住帰国は珍しい。桂川さんは「やっぱり日本はいいですね」と満面の笑みを見せた。 /// 続きは本誌ご参照
家族のこと話そう:父母のおかげで命拾い48
河合博之(弁護士)     転載元:東京新聞(2017年3月5日付朝刊)
父は京都大経済学部を出て、「一旗揚げてやる」と当時の満州(現中国東北部)に渡りました。旧満州国がつくった電力会社に入り、日本軍の軍医の娘と結婚。私は三人目でやっと生まれた待望の男の子だったので、とてもかわいがられました。戦中は恵まれた生活で、社宅には当時は相当に珍しかった冷蔵庫もあったそうです。 /// 続きは本誌ご参照
『毛沢東の対日戦犯裁判』の書評と「わんりぃ」について49
大類善啓
「わんりぃ」という冊子を知ったのは2012年の1年間、『日本と中国』紙の編集長をしていた頃である。その折り「甘粕正彦と大杉栄」というタイトルで原稿を書いた。その後、代表の田井光枝さんは『星火方正』16号の拙文「国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義へ―」を読まれ、小生にエスペラントについて書いてほしいと言われた。そして昨2016年3月から毎号、混迷の時代を拓くザメンホフの人類人主義「私は人類の一員だ!」を連載している。「友好訪問」はそのような縁から編集部から依頼された。また次頁の澤岡泰子さんも本当に縁のある方だと思っているが、ご縁の経緯は長くなるので別の機会にしよう。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:自分たちが楽しんできたからここまでやってこられたんです―日中文化交流市民サークル「わんりぃ」代表・田井光枝さん 交流活動誌で「日中学院倉石賞」を受賞50
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2017年3月1日)
「わんりぃ」といっても知る人ぞ知る、という感じではないか。受賞の件でインタビューを申し入れたところ、「賞をくれるなら、10年前にほしかったわ。こんな年寄りになってからなんて」と、ユーモアたっぷりの答え。会えば、なんだ童女のような若々しい感じなのである。 /// 続きは本誌ご参照
友好訪問:日本で考案された"木リト"が中国の大地で根付いています―版画家・澤岡泰子さん 中国人学生に木のリトグラフの魅力を伝える51
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2016年8月1日)
小学4年から中学2年まで、開放性の肺結核にかかり学校へ行けなかった。部屋にあった枕草子などをひたすら読む一方、たくさんの紙に、ただただいたずら書きをして過ごす。高校の美術部から女子美術大学へ。卒業後は大手企業に就職し商品デザインを担当した。その後、フリーに転向。絵を書く一方、6畳の部屋でできる金属レリーフを始め、木のリトグラフ(版画の一種)に出会う。「これは面白かと思い、始めました」。「木リト」の始まりだ。その作品の成果は、ポーランドやイタリア、そしてメキシコなどでの展覧会に繋がった。 /// 続きは本誌ご参照
戦争の狂気語り続ける 僕の使命それしかない―人生の集大成 最後の小説『夜の歌』 作家・作詞家・なかにし礼さん52
金子徹(しんぶん赤旗)     転載元:しんぶん赤旗(2017年2月26日付)
作家・作詩家の、なかにし礼さんが、新作『夜の歌』を出しました。幼少期を過こした満州(中国東北部)からの過酷な逃避行や、戦後の芸能界などを描きます。波乱の人生の集大成となる長編を書き上げ思うのは…。 /// 続きは本誌ご参照
「父母の墓参りしたい」―北朝鮮残留日本人女性訴え53
東京新聞(時事)     転載元:東京新聞(2017年4月20日付夕刊)
第二次大戦後の混乱期に日本に帰国できず、北朝鮮に残留したという女性(84)が十九日、北朝鮮東部の咸興で日本記者団の取材に応じた。女性は「父母のに墓参りをしたい」と語り、日朝関係の改善と早期帰国の実現を訴えた。健康状態は良く、両親の出身地である熊本県で暮らす親戚と手紙のやりとりをしていると話した。 /// 続きは本誌ご参照
タンゴ歌手・籐沢嵐子と大連―《大連体験》を決して口にしなかった嵐子に思う54
大類善啓
この原稿は、2014年春に発行された日本タンゴアカデミーの機関誌「Tangolandia」に、≪嵐子よ、安らかに眠れ―「大連体験」を昇華した藤沢嵐子のタンゴに思う―≫というタイトルで掲載したものである。つい最近、タンゴダンスを始めたという人にこの拙文のコピーを送る際読み返したところ、本誌の読者にも興味がある内容ではないかと思った。大連からは多くの引揚げ者がいて、いろいろ体験談なども書かれているが、藤沢嵐子は、「大連のことを決して口にしなかった」ということも、一つの大連体験の貴重な表現ではないかと思い、本誌の読者に提供してみたかったのである。当初、少しは本誌のために修正しようかと思ったがその余裕もない。本誌の読者は、本稿がタンゴ研究家や愛好家を対象にする機関誌に、今から3年ほど前に書かれたものであることをくれぐれも頭に入れてご笑覧いただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
(日中国交正常化45企画)方正日本人公墓建立を許可した周恩来の足跡を訪ねて60
方正友好交流の会
今年は日中戦争の発端となった盧溝橋事件から80周年という年でもあります。日本の敗戦後、やっと日中間の国交が回復してから45年目という年、国交正常化を果たす上で重要な役割を果たし、また方正日本人公墓建立を許可した国際的ヒューマニスト・周恩来総理の足跡を訪ねる旅を企画しました。ぜひご参加をお待ちしています。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い61
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記62
大類善啓
前号は、両陛下が満蒙記念館を訪問されたことを大きく取り上げた故か反響はすこぶる多かった。安倍政権やそれを取り巻く日本会議などが戦前の戦争史観を肯定的に捉え、日本の過ちを正面から直視しない状況の中、「過去をしっかりと見据えなければいけない」という両陛下の思いと行動は、それ故にこそ、今後も大いにアピールしたいと思っている。 /// 続きは本誌ご参照
 
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