方正友好交流の会
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星火方正
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第22号(2016年5月発行) / 1冊17記事 を表示しています。

  第22号(2016年5月発行) 第22号(2016年5月発行)表紙

松田ちゑさん逝く 享年96歳一獄中3年、死刑から無罪へ1
奥村正雄
2月29日、外出から帰宅した私は、ルスロク(留守録)を聞いて、わが耳を疑った。「松田ちゑの孫です。おばあちゃんが亡くなりましたのでお知らせします」松田ちゑさんの孫娘・幸子さん(40歳)が知らせてくれた電話だった。そんな?!…昨年暮れも押し詰まった12月29日、息子・雀鳳義さん(68歳)に電話して松田さんの様子を聞いた時も、「いつものようにデイサービスに行ってるよ」という答えだった /// 続きは本誌ご参照
中国側の証言を求めて―「満蒙開拓平和記念館」調査訪中報告4
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事/本会理事)
昨年10月10~14日の5日間と短期間ながら、満蒙開拓平和記念館による旧満州への調査訪中を実施した。当記念館としては一昨年6月実施の第1回調査に続く2回目の訪中調査である。今回の調査訪中の主たる目的は3つ、1つ目は前回にも実施したものの不十分なままに終わってしまった現地農民等中国側の生の証言の収録に再度取り組んでみること、2つ目は当館との交流を深めている中国側の民間ボランティア団体「ハルピン市養父母連絡会」との交流、特に同会がハルピン市内の「731部隊陳列館」にて常設展示している「中国養父母展」の日本国内展示に向けての実務的な打ち合わせ等を行うこと、そして3つ目は現地の開拓団跡地等を訪問し、比較的若い皆さんの多い記念館スタッフ等に、かつて満蒙開拓団の人たちが暮らした場所を実際に見てもらう中で、今後の活動の参考として欲しいということであった。 /// 続きは本誌ご参照
方正地区と伊漢通の開拓民避難状況記縁9
高橋健男
元北海道新聞記者でノンフィクション作家の合田一道氏によって報告された「北満農民救済記」録は、満州移民研究者にはよく知られた貴重な記録、歴史資料である。「ソ連軍の侵攻や中国人の蜂起にさらされて逃避行を続けた開拓団が、やっと哈爾浜に到着し、日本人居留民会に届けた記録」(合田氏)である。 /// 続きは本誌ご参照
「虫の目」ではなく「鳥の目」で考察を!15
矢吹晋
昨年は敗戦70年であり、さまざまの回顧行事が行われた。音質のよりクリアーな玉音放送が発見され、いくどか放送されたが、そこでは音質にばかり注意が向けられ、その内容にはほとんど関心が向かなかった。この「終戦勅語」では、対米英敗戦の事実は語られているが、対中華民国との敗戦は、実にアイマイだ。敗れたのかどうか、人々の脳裏に疑問が残ったのは当然であった。実は、日本が開戦勅語によって対米英の宣戦を行ったが、その論理がおかしいのだ。これを大東亜戦争と名付けて、ついでに慮溝橋事変以来の「事変」を大東亜戦争と新たに名付けた戦争の一部として追認した。ところがこれは日本国内に対する定義にとどまった。 /// 続きは本誌ご参照
満鉄会の解散について21
天野博之
平成28年(2016)3月をもって、70年の歴史を持つ満鉄会は解散しました。満鉄会解散が複数の新聞に最初に報じられたのは、27年12月半ばのことです。この日から連日事務局には、おびただしい電話、メール、訪問客がくるようになりました。父祖のルーツを知るため、あるいは自分史を書くため、という理由です。 /// 続きは本誌ご参照
「満州」に渡った私たち一繰り返してはならない怨念の連鎖23
名取敬和
私は昭和3(1928)年、長野県諏訪郡富士見村(富士見町)に農家の2男として生まれた。当時、富士見村も経済更生村に指定され、村の優秀な青年が「開拓の父」と言われた加藤完治の教育を受け、3人組が連日役所に押しかけ、村の更生は満州分村以外にない、と口角泡を飛ばし村長に迫る。村長、樋口隆次氏は犬養総理や小川平二代議士とも交流があり、満州開拓移民には反対であったようだが、村長という立場上、村の更生の責任を感じ、押し切られ、村議を重ね、立派な宣言文をつくり、村の三分の一を移住させ、自ら団長となって指揮をとる、と村民の協力を求めた。 /// 続きは本誌ご参照
祖国に帰らぬ残留婦人たちーその孤独な心を撮る:千島寛写真展27
千島寛
「中国残留婦人一さよなら日本、再見中国」を昨年12月11日から17日まで、東京・銀座5丁目の『フレームマン・ギンザ・サロンギヤラリーII』と、そのミニギヤラリーで開催しました。1945年の敗戦後、それそれの理由で祖国に帰国できなかった林薫(黒竜江省チチハル市)、本間武子(遼寧省瀋陽市)、浦崎蓮(内蒙古自治区札蘭屯市)、小田今朝江(内蒙古自治区阿榮旗)の中国残留婦人の、4人の異国での日常生活を1995年から2015年まで、20年間、中国と日本で撮影したものです。 /// 続きは本誌ご参照
再び戦争をしないために戦争法(安保法制)廃止を!―「満蒙開拓団」の経験を踏まえて改めて今思う29
石橋辰已
『星火方正』には多くの方々の満蒙開拓団悲惨な逃避行が述べられ、私も2014年5月発行の18号に「満蒙開拓団・私が歩んだ道」を掲載させてもらいました。2014年3月「方正友好交流の会」の企画による「満蒙開拓平和品念館」を訪ねる長野県下伊那の旅に参加して、品念館の資料を見学し、寺沢秀文専務理事のお話、語り部の故・中島多鶴さんのお話を聞いて、方正で開拓団の人々から聞いた話を思い出しました。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の体験記を日中両国語で本に―池田澄江さん(71)32
五味洋治(東京新聞)     転載元:東京新聞(2016年4月15日付朝刊)
「残留孤児の悲劇を繰り返してはいけない」。体験記にそんな願いを込めた。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70周年平和祈念:満州開拓団の悲劇『声なき氷像』公演を終えて33
飯牟礼一臣(市民劇団「あびこ舞台」代表)
アマチュア劇団ながら創立24年目を迎える「あびこ舞台」では、敗戦直後の満州開拓団の悲劇をテーマにした舞台劇『戸なき氷像』を、東京、横浜、松戸、柏、我孫子など関東一円で、これまで21回にわたって上演してきました。昨年は戦後70周年の節目。我孫子市最大・定員550名のホールで、第1部(満州編)・第2部(日本編)と新しく2時間30分の書き直した『戸なき氷像』を、8月と12月、それぞれ1日2回公演。いずれも多くのお客様にご覧頂きました。この劇は敗戦直後の満州で10歳のとき、私が直接目にした満蒙開拓団の姿を描いたものです。 /// 続きは本誌ご参照
自ら刺したトゲに…―徐士蘭の背負った悲劇36
奥村正雄
あの日――からもう4年になる。新潟空港で再会し、徐士蘭が胸に飛び込んできて泣いたシーンが、今も鮮やかに蘇る。10日間だけの祖国訪問の、翌日からの日程のトップに厚労省訪問を決めたのも、「あの緊張シーン」が頭にあったからだった。2007年の6月、中国・黒竜江省ハルピン市方正県のホテルのロビーで羽田澄子監督のロケチームがロケを終えて、いったんホテルに帰った時だった。それを待ち構えていた徐士蘭が、激しい口調で、自分が残留孤児であることを訴え、私の部屋に場所を変えてからも、一緒に来た長女をそばに座らせて、休むことなく、日本の厚労省が自分を孤児とは認めてくれない不当を、激しい口調で訴え続けたのだった。あのイメージが頭から消えなかった私は、厚労省訪問という気の重い日程をまず最初にクリアーしたい、という気持ちがあったから、まずは第一日目に厚労省訪問を決めたのだった。 /// 続きは本誌ご参照
奉天(審陽)、大連での子供時代を振り返ってーつれづれ思い出すままく満州覚書>38
篠原浩一郎
昭和20年4月から奉天の高千穂小学校に入学した。幼稚園があった弥生小学校ではないので少し不安だった。父親は満州鹿島組の取締役土木部長で、満州鹿島組奉天営業所所長を兼ねていた。事務所と社宅が一体になった2階建てで、L字型の一辺の1、2階は事務所、他の一辺は社宅になって上下6軒ほどだった。敷地の中に平屋の家があり、保守の満人(編集部注当時、“満州”にいた日本人は、現地にいた中国の人々をそう呼んでいた)の劉さん一家が住んでいた。どういう漢字なのか知らないがユースンという同い年の男の子がいた。彼の家は土間にかまどがあり、お母さんがいつも中華鍋でジャージャーと揚げ物をしていた。ねじり棒のお菓子とか、餃子とかもらうのが楽しみだったが、母親からは不衛生だから行ってはいけないといつも叱られていた。会社の中も子供たちの遊び場で職員たちもかわいがってくれた。 /// 続きは本誌ご参照
三橋文子さんの手紙43
川合継美
2004年、秋の訪れを感じ始めた頃のある日、私は見知らぬ女性からー通の手紙を受け取った。差し出し人は、三橋文子さんとある。手紙を読み終えて、私は何と不思議なことだろうと驚きと当惑を覚えずにはいられなかった。手紙の書き出しから、謙虚で慎ましい人柄を感じることが出来る。三橋さんは近くの図書館で、私の著書『風の嗚る北京』を読んだこと、そして、読み進むうちに手が震え、胸が高嗚った、とその衝撃の強さを述べていられる。それほどの衝撃を受けた内容とは、私が父、梨本祐平の著書『中国のなかの日本人』のー文を引用していた部分についてであった。 /// 続きは本誌ご参照
フィリヒン・ミンダナオ島から引き揚げた私45
丹野雅子
私は、昭和11(1936)年12月27日、フィリヒン・ミンダナオ島タバオ市ミンタルに生まれた。大正9年頃というから1920年頃だろうか、祖父(母の父)は、フィリヒン・ミンダナオ島のタバオに移民として渡った。そこで、バナナの葉に似た葉、マニラ麻(現地ではアバカという)やラミ麻、果樹園、家畜などの事業を展開し、後には日本人小学校、―校を設立した。私は小学校の1年半までミンタル小学校に入学し、楽しい幼少時代を送った。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第3回)48
大類善啓
本稿は本誌20号の第1回に記したように、本来は若い研究者を中心に発行する予定だった『日中の未来を見つめる日本人公墓ー中国黒竜江省方正県』(仮)の最終章に入れるべく書いたものである。しかしこの止画は残念ながら実現できず、拙文を独立して本誌に掲載するものである。本稿は、日本人公墓建立を許可した周恩来の国際主義的精神がどのように形成されていったのかをまとめたものであり、周恩来の伝記として書いたものではないことを改めて記しておきたい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い56
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/書籍案内を兼ねた編集後記57
大類善啓
3月に入って南誠さんから上記の大著が送られてきた。南さんのお名前については、本誌の創刊号あたりから読んでいる方には記憶もあるだろう。当会の発足時点から理事として活動しており、2006年3月に発行した『星火方正』2号に「方正訪間記一『方正日本人公墓』と私一」という文章を書いてくれている。 /// 続きは本誌ご参照
 
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