方正友好交流の会
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星火方正
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第20号(2015年5月発行) / 1冊17記事 を表示しています。

  第20号(2015年5月発行) 第20号(2015年5月発行)表紙

麻山よ再び一岩崎スミ手記「野ざらしの骨」1
高橋健男
岩崎スミさんは1924(大正13)年12月生まれの90歳である。本誌『星火方正』への筆者寄稿文(11・12号の拙文、12・13号の小出公司さん寄稿)が縁で、2013年・2014年と2回、北海道は夕張郡由仁町の自宅を訪問、哈達河開拓団や麻山事件に関する話を聞かせてもらったり資料を拝見させてもらったりした。ご一緒した時間は延べ12時間くらいになろうか。 /// 続きは本誌ご参照
野ざらしの骨2
岩崎スミ
「先生、助けてぇー」――広い大陸の丘を逃げまどう悲鳴に驚き、ガバッと布団をはねのけて坐る。汗びっしより。あ、今のは研ちゃんとはじめ君だった。涙が止まらない。胸は苦しく、夢であったかと、動悸をおさえる。 /// 続きは本誌ご参照
ソ連兵に奪い去られた姉の親友7
酒井旭
星火方正第9号(2009年12月発行)に“満州開拓団と居留日本人の悲劇の跡を巡る旅”と言う紀行文を書いたことがありました。その中で、下記のような呼びかけをしました。 /// 続きは本誌ご参照
「大東亜聖戦大碑」と護国神社9
寺沢秀文
今年3月24日に延伸開業した北陸新幹線。その中で一大ブームを呼んでいるのが終点駅の加賀百万国の城下町「金沢」。その金沢にある日本三大名園の一つ「兼六園」のすぐ隣に「石川護国神社」というのがあります。皆さんはこの金沢市の石川護国神社に「大東亜聖戦大碑」と言う大きな碑が建てられているのをご存じでしようか?写真を見て頂く通り、高さ12mという大きなものです。かく言う当方自身もまだ機会が無く実物は見ていないのですが、建立当時からその存在は知っていましたし、写真等では何回も見ています。 /// 続きは本誌ご参照
天を恨み、地を呪いました―松田ちゑさんの半生・94春秋13
奥村正雄
晴れたが風が冷たい。4月9日午後、地下鉄の駅を降りて7、8分。橋を渡りかけると水面の花筏に、また桜の花びらが舞い落ちる。目の前に10階建ての都営住宅。エレベーターを降りる。鉄の扉をノックする。息子の崔鳳義さん(68歳)が顔を出す。目に特徴がある顔が、私と知って和む。 /// 続きは本誌ご参照
周恩来と国際主義的精神(第1回)23
大類善啓
2012年7月、第8回方正友好交流の会の記念講演会後、事務局参与の牧野史敬氏が、翌2013年は方正日本人公墓が建立されて50年日になるが、かつて我々が刊行した『風雪に耐えた「日本人公墓」ハルビン市方正県物語』が絶版になっているので、新たな本を発行してはどうかというアイディアを東洋書店の斉藤春夫氏に出したところ氏も賛意され、『日中の未来を見つめる 日本人公墓一中国黒竜江省方正県』(仮)を出版しようということになった。満洲移民の背景なども含めて若手研究者の論文を中心に編集していこうということになり、小生も最終章に、日本人公草建立を許可した周恩来の国際主義的精神がどのように形成されていったのかをまとめた「周恩来と国際主義的精神」という本稿を書き上げた。しかしこの出版企画は諸般の事情で流れてしまった。そこで拙文だけを独立してここに掲載することにした。すでに書き上げて2年余は経っている。読者諸氏のご叱正をいただければ幸甚である。 /// 続きは本誌ご参照
本会事務局参与・木村直美さんのご逝去を悼む31
牧野史敬
本会の前身である「方正地区支援交流の会」は、1993年6月、会長石井貫ー氏(自由民主党政務調査会総括調査役)の呼び掛けにより、(財)日中友好会館で発足した。木村直美さんは、自民党政調会専門委員として石井氏の下でお仕事をされてきた関係もあって、退職後は理事として石井会長の下でこの会の活動を支え推進して下さった方でした。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓つれづれ草」N0.157(平成27年4月3日)―川田龍平さんが国会で方正公墓について質問35
寺沢秀文
《解説》国会で参議院議員の川田龍平さんが方正公墓について質問するという旨、川田事務所から電話が入ったのはその前夜だった。すぐに会の仲間たちに連絡した。当日、テレビ中継はなかったが、インターネットでの中継があるというので見た。さっそく、精力的に「満蒙開拓つれづれ草」を発信している寺沢さんが、これを取り上げてくれたので転載する。なお議事録は方正関係と関連する部分だけを紹介した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
再び山口淑子について―クウェート人質事件で見せた、知られざる活躍など40
大類善啓
山口淑子が亡くなって1年半、相変わらず彼女というより「李香蘭」の人気が高い。李香蘭が戦前に録音した2曲の未発表音源が見つかったという記事が朝日新聞夕刊(2015年4月11日付)一面に大きく掲載されていた。李香蘭は今でも人々を引きつける何かを持っているようだ。かくいう私も、やや複雑な気持ちがありながらも、新聞記事を見つけると切り抜いてスクラップブックに張り付けている。いずれ何か書く時の参考にしようと思っているからだが、深層心理的にはやはり引きつけられているのだろう。さて、前号(『星火方正』19号、2014年12月刊)に、そんな山口淑子とのささやかなエピソードを記した。方正友好交流の会発足当初には、こんな逸話というか歴史もあったのだ、と書いておきたかったからである。 /// 続きは本誌ご参照
燎原の火は方正からー現在と未来を切り開く方正日本人公墓47
大類善啓
この原稿は、代表・加藤宣幸さんが責任編集するメールマガジン「オルタ」133号(2015年1月20日)に配信されたものである。「オルタ」は2004年3月20日に創刊され、この4月20日で136号を迎え、く一人ひとりが声をあげて平和を創る>をモットーに毎月一度、約17000人に配信され、HPの訪間者数は2万人前後だという(2015年1月末現在)。今回の拙文は加藤さんより依頼され書いたもの。加藤さん了解の下に転載する。(大類) /// 続きは本誌ご参照
試写会のご案内―記録映画『10日間だけの祖国』55
奥村正雄
4年がかりの映像(ドキュメント)がようやく出来上がった。映像の8割がたはすでに撮り終え、昨年の方正友好交流の会の総会では、未整理の状態で中間報告をさせていただいた。その時点で、どうしてもこの映画に欠かせない映像が一部、撮り残されていた。それはこの映画の主人公・徐士蘭さん(推定69、70歳)が生まれて間もない1945年8月、方正県の郊外である開発鎮(村)にある小学校の校庭で、実母の手から一人の青年(張文学さん、故人)の手に托された、その現場の映像である。この映像がこれまで撮れなかったのには理由があった。古い校舎を全面的に建て替える工事が続いていて、撮影のために中に入れてもらえなかったためだ。この最後に残った映画のシーンを撮るために私たちがハルピン、方正へ行ったのは昨年1月だった。「たとえ鉄棒でぶん殴られても動くな(外へは出るな)」という古い諺があるほど厳寒の時期だった。私と吉川カメラマンは、厚着の中に、さらにホッカイロを何個か腰回りや足元などにしのばせた。 /// 続きは本誌ご参照
秦野市で『鳴呼 満蒙開拓団』上映さる59
編集部
2009年から翌年にかけて映画作家、羽田澄子さん演出の映画『鳴呼 満蒙開拓団』が日本各地で上映され、多くの人たちが満蒙開拓団の実態などを改めて知ることになった。映画の冒頭、ナレーターでもある羽田さんが『星火方正』の創刊号と2号を紹介し、「この不思議な冊子で、日本人公墓の存在を知りました」という言葉を聞いて、実にうれしい気持ちをしたものである。 /// 続きは本誌ご参照
旅のご案内―じっくり上海歴史散歩6日間61
方正友好交流の会
上海はかつて魔都と言われるだけあり、なかなか魅力的な町です。横光利一が『上海』という小説に書いたように「さまよえる日本人」がいた街であり、戦後も堀田善衛が国民党に留用された街であり、またリヒアルト・ゾルゲやアグネス・スメドレー、尾崎秀美が生きた街であります。また一方、国民党政権下で上海映画人たちが素晴らしい映画を創り、また中国共産党が産声を挙げた街でもあります。そんな旧英国租界やフランス租界跡をゆっくりと歩きます。内山書店を中心に広がった魯迅と内山完造ら日本人との交流、また腐敗と旧世界の泥沼から新たな世界を切り開こうとした息吹きを、この旅で実感していただければと思います。ぜひご参加をお待ちしています。上海歴史散歩の会代表片山泰郎先生が租界時代の上海を案内します。 /// 続きは本誌ご参照
「国策」に翻弄された人々を救う―映画『山本慈昭 望郷の鐘一満蒙開拓団の落日』を見て62
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2015年4月1日)
悲惨な「文化大革命」が終りを告げ、中国が新たな開放経済体制に入った1980年代の初め、苦難の人生を中国の東北部で生きた婦人たちが、テレビの画面に現れ出た。彼女たちは、平和な空気にどっぷりとつかった日本人たちに、「あなたたちの日本は私たちを忘れていたのですか」、と鋭い刃を突きつけているかのように見えた。彼女たちの存在こそ、中国残留日本婦人であり、かつての残留孤児の現在の姿だった。日本にいる肉親を捜す「集団訪日調査」のために日本を訪れたのである。 /// 続きは本誌ご参照
映画「白夜のタンゴ」に思う―起源はさまよう望郷の魂63
大類善啓
文化のジャンルでも過度に自国の文化の優越性を言うと危険な兆候になりかねない。そういう意味でも映画『白夜のタンゴ』は面白かった。映画に触発されて書いた原稿が東京新聞文化部でそれなりに評価してくれたようで掲載してくれた。文化の起源はタンゴに限らず、国単位ではかれるものでないと思う。それぞれ国境を越えて影響し合っているものだ。そんなこと思ってご笑覧いただければ嬉しい。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い64
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記65
大類善啓
当会の事務局がある日中科学技術文化センターの会報「きずな」の編集作業と雑事も重なり忙しかったが、なんとか20号を発刊できた。今号も森一彦氏の他に、奥村正雄氏から編集業務で助力を受けた。 /// 続きは本誌ご参照
 
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