方正友好交流の会
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星火方正
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第19号(2014年12月発行) / 1冊38記事 を表示しています。

  第19号(2014年12月発行) 第19号(2014年12月発行)表紙

互いに感謝の気持ちをもってこそ―方正県「中日友好園林」を訪れて1
朱建榮(東洋学園大学教授)
2010年9月、私は『中国で尊敬される日本人たち』と題する本を中経出版で出した。第2次大戦後から21世紀初頭までの各時代に中国の大地で活躍し、現地の発展に貢献した日本人を紹介したものだが、本の第5章では「現代中国で唯一の日本人記念碑が建てられた藤原長作」という一節を書いた。 /// 続きは本誌ご参照
葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り―念願の証言集を刊行して6
大島満吉(興安街命日会代表)
葛根廟事件と聞いても知らない人が大半です。旧満州国の中で、ソ連との開戦時に一番大きな被害を出した事件にもかかわらず、メディアの中でも余り知られていないのが葛根廟事件でした。開拓団の被害状況の方は、かなり知られるようになったのですが、どの事件も300人から500人の犠牲者を出したものでした。葛根廟事件の方は、1,000人を超える死者、行方不明者を出しているのです。民間人の集団で犠牲者が1,000人を超えた事件は、この事件だけです。場所は、現在の内モンゴル自治区の中にありました。当時の満州の行政地区でいうと、興安南省・王爺廟、1943(昭和18)年に興安街と改称され興安総省の首都が設置された場所で、そこを脱出する避難民の出来事です。 /// 続きは本誌ご参照
「方正」と村山談話を未来に10
星野郁夫(村山談話を継承し発展させる会副代表)
私は埼玉の田舎で、地域の一市民として地方自治・市民主権の活動をしている。群馬で生れ、東京に出てからの約50年余を経たが、東京の三宅坂周辺で活動をしてきた。ある時、1960年代に活動した仲間の会合で大類善啓氏と出会い、はじめて方正を知った。その時の衝撃は忘れられない。その後送られてきた『星火方正』を読みながら、正直言って自らを恥じた。社会主義・民主主義の活動に身を投じてきた私が、中国黒龍江省にある日本人墓地を、日本と世界の人々に知らしめるべくすすめられている地道な活動とその意義を、改めて思い知らされたからである。 /// 続きは本誌ご参照
地域に平和学習の輪をどう広げるか12
先﨑千尋(会員)
茨城県で活動している内原・友部平和の会の島田修一会長から誘われて、10月26日に笠間市友部中央公民館で開かれた表題をテーマにした学習会に参加した。島田さんは、私どもが編集発行した『いしくれ-谷貝忍が耕してきたもの』(同時代社刊)に序文を寄せていただき、その出版記念会で一緒になった。 /// 続きは本誌ご参照
「歴史実践」の場としての旧満州15
今野日出晴(岩手大学)
2014年9月13日から20日まで、私たちは、旧満州(中国東北部)を訪問調査した。私たちとは、研究課題「地域をつなぐ自省的な『歴史認識』形成のための基礎的研究―東北地方を基軸に」(研究代表者:今野日出晴)を共に探求している、日本と中国の研究者である。この共同研究によって、日本と中国との間で感情的な対立が激しさを増すなか、隘路に陥りがちな「歴史認識」問題に対して、自省的な「歴史認識」を育成するために、歴史教育プログラムを提案したいと考えている。小さなグループによるもので、スタートしたばかりの共同研究であるが、副題にもあるように、東北地方を基軸にしていることが特色の一つになっている。 /// 続きは本誌ご参照
日中関係の現状と未来を考える25
藤野文晤
《解説》藤野文晤さんのこの講演は、今年(2014年)6月8日、方正友好交流の会、第10回総会後に行われたものである。藤野さんは1937年、広島市生れ。大阪外国語大学中国語学科卒業し伊藤忠商事に入社後ずっと中国畑を歩まれ、91年中国総代表の後、常務取締役など歴任。現在、藤野中国研究所を主宰。富山県環日本海経済交流センター長、伊藤忠商事理事、日本国際貿易促進協会顧問、日中経済協会評議員などを務められている。私などがまだ仕事として中国に関わる前から、藤野さんの新聞紙上に表われたコメントは、現実の中国ビジネスに携わったものでしか掴めないリアリティーがあった。世の中国通の評論家や研究家と一線を画するもので、実に中国の実情がわかったものである。講演は森一彦がまとめた。(大類善啓記) /// 続きは本誌ご参照
国境を越えて共に考える旧満州と満蒙開拓―「満蒙開拓国際シンポジウム」を開催40
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る10月12日、「満蒙開拓平和記念館」のある長野県阿智村の「阿智村コミュニティーセンター」において、「国境を越えて共に考える旧満州と満蒙開拓」というテーマで国際シンポジウムが開催されました。当シンポは、米国・中国・日本で旧満州または満蒙開拓の調査研究に携わる民間研究者並びに満蒙開拓二・三世出身研究者を招いてのパネル・ディスカッション形式にて開催されたもので、同時に、この10月1日に満蒙開拓平和記念館の中に新たに併設した「満蒙開拓研究所」(当方が所長に就任)の開設記念イベントを兼ねてのものでもありました。 /// 続きは本誌ご参照
中島多鶴さんを偲ぶ43
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館副館長・専務理事)
去る11月7日、長野県泰阜村の中島多鶴さんがお亡くなりになりました。享年89歳。同村から旧満州に送り出された「泰阜分村開拓団」の元団員であり、戦後は中国残留邦人の帰国支援に尽くし、「残留婦人の母」とも呼ばれ、またつい先頃まで満蒙開拓平和記念館などで「語り部」としても活躍されてきた方であり、多くの方に「多鶴さん」と慕われた方でした。 /// 続きは本誌ご参照
戦争体験を語り継いでいこう45
山下美子
この10月25日から26日にかけて、長野県の満蒙開拓平和記念館、無言館(編集部注:正式名称は一般財団法人戦没画学生慰霊美術無言館)、松代象山地下壕(注:太平洋戦争期、本土爆撃から日本の中枢を守るため、皇居、大本営を長野県松代に移転する工事を行った。その施設跡)を見てきました。無言館では、私の親と同年代の方々が戦争(学徒動員)でなくなっており、何度訪れても哀しくなる無言の場所です。松代象山地下壕は以前、少なからず脇坑(注:施設の中心となった地下坑道の側面)をのぞくことができましたが、今回は網が張ってあり、本坑のみしか見ることができませんでした。 /// 続きは本誌ご参照
敗戦まぢかの満州移民―満蒙開拓平和記念館を訪ねて47
唐沢修(もと岩波書店)     転載元:出版OB九条の会ニュース(2014年11月18日発行 No.44)
9月末、「民主長野県人会」(東京周辺の長野県出身者等でつくる会の―つで、会長畑田重夫氏)のツアーで長野県南部の阿智村の満蒙開拓平和記念館を見学した。昨年春の開館以来、全国からの参加が予想外に多くその数すでに4万名に達するという。 /// 続きは本誌ご参照
公文書 中国語で翻訳出版―浮かぶ満州の姿48
新貝憲弘(東京新聞中国総局)     転載元:東京新聞(2014年5月28日付)
中国吉林省公文書館が、保管している旧満州国時代の公文書の一部をまとめ、旧日本軍による「侵略の証拠」として出版した。歴史問題を題材とした対日批判の一環だが、満州国の社会や経済を知る新たな手掛かりも記されており、当時の歴史を研究する資料集として価値がありそうだ。 /// 続きは本誌ご参照
開拓団員の悲劇 旧満洲訪ね調査―阿智の記念館スタッフら 初の訪中49
前野聡美(信濃毎日新聞東京本社)     転載元:信濃毎日新聞(2014年6月17付)
第2次大戦中を中心に旧満洲(現中国東北部)に渡った満蒙開拓の歴史を伝える全国初の施設、下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館のスタッフらが、現地調査のため中国・黒竜江省を訪問し、16日は木蘭県勝利村にある旧川路村(現飯田市川路)の開拓団跡を訪れた。訪中は記念館開館前を含めて初めてで、開拓団があった場所を訪ねたり、当時を知る中国人の話を聞いたりして調査。中国側から満蒙開拓の歴史を知ることで展示の充実に生かしていく。 /// 続きは本誌ご参照
戦後70年の記憶:阿智の平和記念館訪中団―満蒙開拓の地たどって50
前野聡美(信濃毎日新聞)     転載元:信濃毎日新聞(2014年7月4日~10日付の連載6回)
下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館の職員らが6月13~17日に、聞き取り調査などのため旧満洲(中国東北部)を訪問した。第2次大戦中を中心に、全国の都道府県で最も多い3万3千人余りを県内から送り出した満蒙開拓の歴史を中国の側から捉え、展示を充実させようと計画した。訪れたのは長野県からの開拓団が多かった黒竜江省の省都ハルビン市、方正県、木蘭県。来年に戦後70年を控え、戦争の教訓をどう伝えていくべきか。記念館職員らは、戦争の記憶が刻まれた大地を踏みしめながら考えた。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓の歴史リアルに―長野・阿智村56
伊佐九三四郎(茨城新聞)     転載元:茨城新聞(2014年7月22日付)
長野県の山あいにある小さな歴史館が、盛況という。戦前、中国東北部などに送り出された人々の足跡をたどる「満蒙開拓平和記念館」。静かな混泉郷や山の幸にも恵まれた阿智村を訪ねた。 /// 続きは本誌ご参照
地方と国策・波立つ海を越えて:乳飲み子抱き自決覚悟―幻の「楽土」57
新潟日報     転載元:新潟日報(2014年8月12日、13日付)
この国は敗戦から立ち上がってきた。国家総動員体制で徴兵された男性、銃後の守りを強いられた女性や子どもたち。戦後とは、戦争という最大の国策に翻弄された国民一人一人の平和への祈りが築き上げてきた道のりといえる。安倍政権は武力行使に道を開く集団的自衛権の行使容認を決めた。日本海は緊張の海へと逆戻りしていくのか。対岸と向き合い、地方外交を進めてきた本県から「平和とは」を考える。 /// 続きは本誌ご参照
記憶―戦後69年―20代記者が受け継ぐ戦争:姉と妹の死「孝行」―狂気が支配 一度も涙流れず60
大野暢子(東京新聞宇都宮支局)     転載元:東京新聞(2014年8月13日朝刊)
那須岳の麓に青々とした牧草地が広がる。終戦後に中国大陸の入植地から引き揚げ、栃木県那須町北部の地を開拓して六十八年になる中込敏郎さん(八七)が、旧満州で家族四人を失った経験を話し始めた。「終戦直後のころは子どもが毎日死んだ。うちの妹もね。それが当たり前だったんだ」。国が宣伝した移民の末、肉親を亡くした悲しみを聞こうと身構えた私にとって、淡々とした語り口は予想外だった。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓 記憶つなぐ―終戦前後 数百キロの逃避行61
石田耕一郎(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2014年8月19日付)
旧満州への移民の歴史を伝える「満蒙開拓平和記念館」(長野県阿智村)が今夏満蒙開拓団の生活などを中国の目撃者から聞き取る活動を始めた。関係者の高齢化が進むなか、証言の収集を通し、若い世代に戦争を身近な問題と感じてもらう狙いがある。集めた証言や資料は今秋にも、日本で公開していく予定だ /// 続きは本誌ご参照
黙した元軍人の父たどる夏―76歳娘、母からの恋文ひもとく62
今村優莉(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2014年8月19日付夕刊)
この夏、神奈川県鎌倉市に住む渡辺喜久代さんは、ありし日の父の姿をしきりに思い出す。小学4年の夏だった。庭で竹刀を素振りしていた父がつぶやいた。「こうやっていると、人を切った時の感覚が返ってくる」。それ以降、父は竹刀に触れなくなった。17年前に逝った山田藤栄さん(享年89)。父は母が戦地に書き送ったラブレターを大切に持ち帰ったのよと、数年前に知人に話したのがきっかけだった。「お父さん、どんな思いだったんでしょうね」。知人にそう問われ、何も答えられない自分が情けなかった。父と一緒に戦った元兵士の男性(97)が名古屋市にいることをその知人が調べてくれ、今春、訪ねた。「立派な方でした」。父をそう評してくれた。だが戦場でのことを問うと、男性は嗚咽で言葉が続かなくなった。 /// 続きは本誌ご参照
中島多鶴さん死去―泰阜出身 中国残留者の帰国支援63
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年11月9日付)
戦時中に旧満州(中国東北部)に渡った元満蒙開拓団員で、中国残留者の帰国支援などに尽力してきた中島多鶴さん(飯田日中友好協会副会長)が7日午後8時34分、脳梗塞のため飯田市内の病院で死去した。89歳。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓体験の語り部―中島多鶴さん死去64
石川由佳理(中日新聞)     転載元:中日新聞(2014年11月11日付)
満蒙開拓体験の語り部として活動してきた中島多鶴さん(泰阜村)が七日、八十九歳で亡くなった。中島さんは、昨年四月に阿智村に開館した満蒙開拓和記念館の設立にも尽力。二度と戦争を起こさないでと願い、自身の悲惨な体験を死の直前まで語り続けていた。突然の訃報に、関係者には悲しみがっている。 /// 続きは本誌ご参照
中国残留者支援の人生 中島多鶴さんをしのぶ―阿南で告別式64
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2014年11月9日付)
中国残留邦人の帰国支援などに尽力し、7日に89歳で死去した下伊那郡泰阜村の中島多鶴さんの告別式と葬儀が11日、同郡阿南町内で営まれた。大勢が参列し、旧満州(中国東北部)で満蒙開拓という国策に翻弄されながら、帰国支援や悲惨な史実を語り継ぐ活動に取り組んだ中島さんの人生に思いを寄せた。 /// 続きは本誌ご参照
新・20世紀遺跡:長野県阿智村 満蒙開拓団―入植27万人の悲劇伝える65
栗原俊雄(毎日新聞)     転載元:毎日新聞(2014年10月30日、11月20日付朝刊)
69年前、大日本帝国のかいらい国家、植民地の「満州国」(現中国東北部)が消滅した。多くの日本人の血がしみこんだ、かの地の歴史を振り返る満蒙開拓平和記念館が長野県南部の阿智村に開館した。 /// 続きは本誌ご参照
「声なき声 伝えねば」―平和の原点 亡き妻との思いでつづる67
奥野斐(東京新聞)     転載元:東京新聞(2014年10月22日付朝刊)
「戦争犠牲者の、声なき声を伝えきれていただろうか」。太平洋戦争末期の東京大空襲を経験し、戦後は戦争や東京の街の歴史を著書に記してきた作家の早乙女勝元さん(82)は六年前、妻直枝さんを突然亡くし、そう考えたという。来年は戦後七十年。平和を願う原点と最愛の妻、直枝さんとの思い出を最新刊「もしも君に会わなかったら」につづった。 /// 続きは本誌ご参照
風雪三十年 見事な果実が枝もたわわ―日本残留孤児養父母連絡会・創立30年記念活動の報告68
石金楷
2014年7月17日、ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会結成30周年を記念する催しがハルピン市の黒竜江省社会科学院会議室で行われた。中国紅十字会、黒竜江省及びハルピン市紅十字会の責任者、黒竜江省社会科学院、ハルピン市社会科学院、黒竜江省人民政府外事弁公室日本処、731陳列館の幹部、日本残留孤児養父母、日本の孤児、関係の専門家、学者および養父母会のボランティアの代表100人近くが出席した。また日本国駐中国瀋陽総領事大沢勉氏も招かれて出席した。 /// 続きは本誌ご参照
残留孤児を描いた中国映画―『厚土深痕』(深い傷跡)69
石金楷
この映像は本誌にも毎号、原稿を寄せていただいている石金楷さん(元ハルピン市中国残留孤児養父母連絡会事務局長、現在、孤児である夫人とともに東京都に在住)から提供されたものである。テーマは敗戦後の混乱の中で、孤児を育て上げた中国人夫婦の愛憎、養父母の情愛に中国人としての意識が強くなってゆく子供の物語である。できれば毎年、秋に東京で開催されている東京映画祭(今年は10月23日から31日まで)に参加したかったそうだが、時間が間に合わず、まずは本誌で誌上初公開となった。 /// 続きは本誌ご参照
いざコンテストへ:記録映画『10日間だけの祖国』―わたしの方正之路70
奥村正雄
私たちが撮り続けてきた、厚労省から認定されない残留孤児・徐士蘭さんの訪日ドキュメント『10日間だけの祖国』は、いま編集作業の大詰めを迎えている。この作業を年末までに終え、年が明けてから最終補正作業にかかり、3月20日に終了、これを4月初めに締め切りを迎える『湯布院映画祭』コンテスト部門に応募する予定である。 /// 続きは本誌ご参照
「徐士蘭ドキュメンタリー」制作ウラ話71
吉川雄作(会員)
未認定中国残留孤児・徐士蘭のことをご記憶であろうか。そしてドキュメンタリー映画のことは…?ものが完成していないのに「ウラ話」でもないと思うが、最近は、「映画はどうなったの?」と聞かれることもめっきり少なくなってきたので、忘れられないように敢えてウラ事情の一端を書いておきたい。本年6月の総会で「10日間だけの祖国」の“試写”をさせて頂いた。奥村弁士の語りで何とか恰好をつけても2010年6月方正の自宅でらったが、思い出すのも冷や汗三斗の“汗顔もの”であった。 /// 続きは本誌ご参照
『ある華僑の戦後日中関係史―日中交流のはざまに生きた韓慶愈』(明石書店)を上梓して72
大類善啓
「日中交流のはざまに生きた韓慶愈」というサブタイトルをつけたように、本書の主人公は、在日華僑の韓慶愈である。裏話をすると当初私は、『ある華僑の秘められた「もうひとつの昭和史」』というタイトルを考えていた。しかし明石書店との話し合いで上記のような書名に落ち着いた。 /// 続きは本誌ご参照
日中問題の深淵に誘う韓慶愈半生記の魅力―大類善啓著『ある華僑の戦後日中関係史』を読んで73
石飛仁
本書は、歴史に翻弄されて来た在日華僑の苦悩する姿を真摯な筆致で描いた好著である。尖閣列島問題が発生して、日中両国関係は、一気に悪化し、1972年以来積み上げられてきた、国是としての日中友好政策は、暗い谷底に突き落とされたかのように、冷え込んでしまった。友好の冠をかぶせることによって維持されてきた領土の問題を、ほとんど一方的にその冠をはずして、実効支配の現実を盾に、所有権を言いだしたのでは、外交音痴で日中戦争の複雑なる沼に落ち込んだ過去から、なにひとつ学んではいないことになってしまった。外交音痴が常である現政権のポカを笑って済まされない深刻な溝が両国間にはあるのだ、表現力の極めてへたくそな日本人民の島国ならではの性質もまた問われなければならない。 /// 続きは本誌ご参照
激動の時代を生きた青春譚―「ある華僑の戦後日中関係史」を読む77
森一彦
本書「ある華僑の戦後日中関係史」は、1943年、17歳で「満州国」公費留学生として来日し、日本の敗戦後も日本に留まり日中関係の交流に尽力された、韓慶愈氏(以下敬称略)の半生を描いたものだ。著者は、韓のもとで働いた経験のある、社団法人日中科学技術文化センター理事・方正友好交流の会事務局長を務める大類善啓氏。 /// 続きは本誌ご参照
「ある華僑の戦後日中関係史」(大類善啓著)を読んで80
秋岡榮子
上海にいると、文化大革命も遠い昔のことだと感じる。昨年末、上海の「富二代」のチャリティーパーティーに招かれた。「富二代」とは、金持ちの息子や娘のことである。参加者はほとんどが20代~30代前半、いわゆる「パーリン(八零)後」(1980年以降に生まれた人々)であり、貧しい中国を知らない青年たちだ。 /// 続きは本誌ご参照
新刊:大類善啓著「ある華僑の戦後日中関係史」―日中交流のはざまに生きた韓慶愈81
一般社団法人東京華僑総会     転載元:華僑報(2014年9月15日付)
大類善啓氏の著書「ある華僑の戦後日中関係史ー日中交流のはざまに生きた韓慶愈」が先頃明石書店から出版された。 /// 続きは本誌ご参照
国交正常化、文化 日中つなぎ続け―旧満洲留学生・韓慶愈さん 波乱の人生が本に82
五味洋治(東京新聞編集委員)     転載元:東京新聞(2014年9月30日付朝刊)
戦前、中国東北部にあった日本の傀儡国家「満州国」から公費留学生として日本に送られ、敗戦後も日本にとどまった華僑、韓慶愈さん(88)の波乱に満ちた人生をつづった本「ある華僑の戦後日中関係史」(大類善啓著、明石書店)が出版された。通訳などとして国交正常化や、文化交流など日中関係構築に努力した経緯を聞き書きして、つづっている。著者の大類さんは「日中関係が難しい時期だからこそ、知られざる華僑たちの活動を知ってほしい」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
“日本と中国”を読む:ある華僑の戦後日中関係史―日中交流のはざまに生きた韓慶愈・大類善啓著83
日中友好協会『日本と中国』編集部     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2014年11月1日)
戦前、17歳で「満州国留学生」として来日し、それから70年が過ぎた今も日本に住み続ける一人の華僑がいる。東京・江東区在住の韓慶愈さん、88歳。その韓さんの波乱に満ちた人生をたどることで見える日中交流史をつづった本『ある華僑の戦後日中関係史』(明石書店)が出版された。著者は、元本紙編集長で方正友好交流の会事務局長の大類善啓さん。大類さんは「戦後の日中交流を考える時、韓さんのような在日華僑がどう生きてきたのかを知ることは、日本の民衆史の側面を補う点からも大いに意味があると思った」と話している。 /// 続きは本誌ご参照
読んでみました:大類善啓著『ある華僑の戦後日中関係史』84
石飛仁     転載元:国際善隣協会『善隣』(2014年11月号)
本書は、歴史に翻弄された残留華僑の苦悩する姿を真摯な筆致で描いた好著である。 /// 続きは本誌ご参照
山口淑子のこと―「あの時、関東軍は逃げてしまったんですよね」85
大類善啓
山口淑子がこの9月7日に亡くなった。享年94歳、「李香蘭」として生きた、文字通り波乱の一生を終えた。各紙の文化欄では、映画評論家や映画記者たちの追悼記事がたくさん出た。映画の記事をずっと書いてきた朝日新聞編集委員の石飛徳樹氏は、「文化記者の最も重要な仕事は、その道の偉人が亡くなった時に過不足なく業績を評価し、歴史の中に位置づけることだと考えている」と書き、「その意味で山口淑子は、文化記者にとって最大の難物だった」と記している。(朝日新聞、2014年10月26日付朝刊) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い88
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記89
大類善啓
今号は原稿が集まらないかと心配だったが、思った以上に多くの人たちに寄稿していただいた。たいへんお忙しいところ、皆さんありがとうございました。 /// 続きは本誌ご参照
 
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