方正友好交流の会
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星火方正
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第17号(2013年12月発行) / 1冊18記事 を表示しています。

  第17号(2013年12月発行) 第17号(2013年12月発行)表紙

安倍さんも方正に行きなさい!―日本人公墓を参拝した丹羽宇一郎さんに、9月18日会う1
大類善啓
初の民間出身の中国大使として北京に2年半駐在した丹羽宇一郎さんは、離任する前の昨年11月17日、かねてから思いのあった方正日本人公墓を参拝された。中国に赴任された大使にはその都度、必ず『星火方正』を送っている。丹羽さんにも2010年6月に赴任されてから送った。驚いたことに北京から返事があった。便箋にペン書きである。中国大使という大変忙しい業務の間をぬって書かれたと思うと、とても嬉しく、同時にとても律儀な方だと思った。 /// 続きは本誌ご参照
唐家璇・中日友好協会会長への手紙10
方正友好交流の会
唐先生におかれましては日々、良好な日中関係継続に努力されております。ここに改めて敬意を表する次第です。現在、日中の政府レベルでは厳しい状況が続いていますが、民間レベルでは、幅広く且つ、深い友好交流が衰えることなく盛んであります。 /// 続きは本誌ご参照
「開拓」、心の底に11
澤地久枝
1981年といえば、遠いむかしのことになった。わたしが五十一歳のときだ。その年の夏、わたしは反満抗日ゲリラの最期のリーダー楊靖宇(1905~1935)の事跡をたどって中国を旅した。1ヶ月あまりの旅で濠江県靖宇鎮をたずね、ゆくさきざきで、新中国成立後、はじめて訪ねた外国人といわれた。 /// 続きは本誌ご参照
草の根交流が一番大事だ―日本人公墓と日中交流を考える14
宮本雄二
《解説》宮本雄二さんのこの講演は、今年の2013年6月1日(土)午後行われた方正友好交流の会・第9回総会のものである。宮本さんは2008年1月10日、日本の大使として初めて方正にある日本人公墓を参拝され、また日本人孤児を育てた養父、当時94歳の魯万富さんに会い感謝の意を表された。この原稿の後に掲載したのは、宮本さんが日中関係学会で発表されたものである。当日の総会で配布した。(大類) /// 続きは本誌ご参照
日中戦略的互恵関係を支え留学生交流34
宮本雄二
私は、われわれが必要としている「新しい時代の新しい日中閲係」なるものが、実は「日中戦略的互恵関係」なのであると主張してきた。それは、物事を長期的な観点から、より広い視野に立って眺めることで(戦略的)、そこから導き出される共通の利益を基礎にした関係(互恵関係)をつくりあげていこう、というものである。この新しい関係を支えるものの中身は多くある。これから順不同で、思いつくまま触れていきたい。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」開館から半年を経て37
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事)
「方正友好交流の会」の会員の皆様を始め多くの皆様方よりの温かい御支援等を得て、足かけ8年を経て長野県阿智村にてようやく完成、開館まで漕ぎ着けた「満蒙開拓平和記念館」。4月25日の開館より早いものでもう半年以上が経過いたしました(11月23日現在)。記念館建設までの経過等についてはこれまでにも何回もこの『星火方正』でも取り上げて頂いていますので、今回は主として開館後の状況等について報告させて頂きたいと思います。 /// 続きは本誌ご参照
鎮魂と平和の里―阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪ねて42
山田敬三
所在地をホームページで調べたけれども経路はいま一つはっきりしない。地図を見たり時刻表をめくったり、挙げ句の果てに記念館へ何度も電話して高速バスの乗り場を尋ねるような始末であった。だが、そんな煩わしい問い合わせをいやがりもせず、事務局の方がいちいち調査して懇切丁寧に答えて下さった。お陰で満蒙開拓平和記念館へはスムースに到着することができた。 /// 続きは本誌ご参照
日本国長野県「満蒙開拓平和記念館」の訪問レポート45
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会秘書長)
2013年6月25日、私たち「平和友好訪日観光チーム」一行5人は名古屋から長野県に行き「満蒙開拓平和記念館」を見学、記念館側の歓迎を受けた。メンバーは:ハルピン市日本残留孤児養父母連絡会の名誉会長・胡暁慧、秘書長・石金楷、黒竜江省社会科学院歴史研究所研究員・車震紅、黒竜江省テレビ特約評論家尚禎、日本残留孤児・都鳳琴、通訳・房若林。 /// 続きは本誌ご参照
叔母家族の終焉の地を訪ねて50
中嶋定和
私の実家は長野県中野市赤岩(戦前は長野県下高井郡科野村)です。私が幼かったころ、祖母に連れられて墓参りに行った時、お墓の端に石が3個置いてある場所がありました。祖母がその所にも線香や花を手向けて祈っているのを不思議な思いで見ていて、その後もずっと気になっていました。 /// 続きは本誌ご参照
あの頃のこと53
福井以津子
「皇紀ある紀元二千六百年」と日本中が旗行列・提灯行列と国民が躍らされていた昭和十五年、私は女学生の一年生になったばかり。校長先生のお話はいつも長く、今は「非常時」「銃後の護りは女子の役目」というお言葉を聞かされていた。 /// 続きは本誌ご参照
この冬、最後の方正ロケヘ:映画「祖国をひと目みて死にたい」(仮題)―政府が孤児と認めない徐士蘭さんの夢をかなえた人たち(わたしの方正之路1)56
奥村正雄
最近、夜中に目が覚めると鋭い声が聞こえてハッと身構えることがある。「あの映画はどうなったんだ!徐士蘭さんは元気なのか?」徐士蘭さんとは、日本政府から残留孤児としての物的証拠がないという理由で孤児と認定されない女性(推定72歳)である。その彼女が2年前の6月、さまざまな障害を乗り越え、多くの人のカンパと声援を得て彼女の悲願「祖国をひと目見て死にたい」が実現した。その一部始終を支援スタッフの中心となった4人(吉川雄作、飯白栄助、是洞三栄子、奥村正雄)の一人、吉川雄作さんが記録してきた。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン氷祭り、詳細ともう一つの意味(わたしの方正之路2)59
奥村正雄
ハルピンの氷祭りは1906年に始まっていますから、一世紀の歴史を持つ世界的な氷祭りです。しかし、世界の観光客が集まるようになったのは1946年、抗日英雄・李兆麟を埋葬した兆麟公園で開かれるようになってからです。世界の氷彫刻家たちが集まって氷の芸術を展示するようになりました。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」を訪ねる―一泊二日の下伊那の旅61
方正友好交流の会
ご承知のように、全国で最も多くの「開拓団」を送り出した長野県南部に「満蒙開拓」に特化した記念館が開館しました。どんなに言葉を尽くしても表現できない敗戦後の逃避行の悲惨さ故に、ほとんどの体験者は沈黙してこの世から去って行きます。その意味で、当時の「満蒙」に関する記念品が陳列されている「満蒙開拓平和記念館」の存在の意味は本当に大きいと思います。日帰りでなかなか時間的な余裕がありませんが、1泊2日で旅する企画を立てました。参加者同士が交流しながら、満蒙開拓の実情を認識しましょう。ぜひ、ご参加を! /// 続きは本誌ご参照
提言:久保孝雄氏の新著「変わる世界、変われるか日本」を推奨!―右傾化を厳しく批判し、旗織鮮明に掲げる「日中友好」62
凌星光(日中科学技術文化センター理事長)     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2013 年秋季号)
神奈川県元副知事、神奈川県日本中国友好協会名誉会長の久保孝雄氏は、今年7月、新書「変わる世界、変われるか日本」を上梓された。日中関係が悪化し、その修復が問われている昨今において、できるだけ多くの人に読んでもらいたい一冊である。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓とは何か64
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中文化交流市民サークル「わんりぃ」2013 年9 月・10 月・11 月
私たち「方正友好交流の会」の活動によって、ハルピン市郊外の方正県にある日本人公墓の存在が少なからず人々に知れ渡ってきた。しかしこの会が、前身の「ハルビン市方正地区支援交流の会」の後を受けて発足した2005年当特は、まるで知る人は少なかった。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い67
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内68
方正友好交流の会
『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『渡満とは何だったのか一東京都満州開拓民の記録(高橋健男編著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記69
大類善啓
作家の辻井喬さんが亡くなった。畏友、木村知義さんがNHK在職中の07年8月に企画し放送されたラジオ特別番組『21世紀日本の自画像一変わる世界!日中関係、新たなステージヘの構想』で、方正日本人公墓を取り上げられた。ゲスト出演が辻井さんだった。放送後辻井さんに『星火方正』をお送りしたところ、返事がきた。「民間交流が大切だ。頑張ってください」と記されていた。その数年後、ある会合でお会いしご挨拶したところ「なかなか立派な会報ですね」という言葉をいただき恐縮した。 /// 続きは本誌ご参照
 
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