方正友好交流の会
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星火方正
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第16号(2013年5月発行) / 1冊15記事 を表示しています。

  第16号(2013年5月発行) 第16号(2013年5月発行)表紙

国際主義を超えてHOMARANISMOを!―K・マルクスからL・ザメンホフの人類人主義ヘ1
大類善啓
領土問題を契機に政府レベルの日中関係が冷え込んでいる。一部、日本に存在する嫌中感情も広がっているように見える。しかしやっとここに来て、感情的な論調や雰囲気が減少しているようである。日中双方の心ある人たちが「理性的に行動しよう」と呼びかけた効果もあるだろうが、ある一定の時間が経てば、熱しやすく醒めやすい感情的な心模様が変わってきたのだろう。感情的な雰囲気は消え去るものなのである。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」の開館を迎えて5
寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事、方正友好交流の会理事)
「方正友好交流の会」の御関係の皆様始め多くの温かいご支援等を頂きつつ建築準備を進めてまいりました「満蒙開拓平和記念館」が4月25日に開館いたしました。この原稿を書いているのが4月15日なので、現段階ではまだ開館前ですが、4月24日に開館式、翌25日より一般公開となります。24日の開館式は、これまでの間にお世話になった御関係者等を中心として阿部守ー長野県知事始め行政関係等や地元の皆さん等お招きしてささやかに挙行する予定です。 /// 続きは本誌ご参照
たったひとつの願い―「満洲」から故郷日本へ帰って11
纐纈代美子
わたしは、昭和10(1935)年に、纐纈家の二女として長野県に生まれました。本籍地は、長野県木曽郡南木曽田立2121番地の1です。わたしが4歳のとき、昭和14年10月5日に、わたしの父の兄弟二家族一緒に、わたしの家族6人、おじさんの家族は8人で、「読書開拓団」として、中国の旧満洲三江省樺川県公心集栄安屯部落へ入植しました。 /// 続きは本誌ご参照
“馴染の地”になった方正18
吉川雄作(会員)
私が初めて方正を訪れたのは2006年6月、当会参与の奥村氏が千葉市幕張で主宰する中国語教室の一生徒として、毎年この時期に行われてきた方正日本人公墓参拝ツアーに誘われてのことであった(会報3号で報告)。以来、2010年に再訪(会報11号で報告)、そして昨年、3度目の訪問で、私にとって方正は“馴染”の地となった。 /// 続きは本誌ご参照
史実を学び、伝えたい21
松島赫子
2010年「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」企画のツアーに方正訪問が含まれていることを知って私も参加した。その前年、ある偶然により方正を知り、“積ん読”状態にしていた来民開拓に関する2冊の本『たたかいの祭り』と『赤き黄土』を読んで、いつか方正へと思ったのが思いがけず早く実現することになった。(来民開拓団は1945年8月17日、宮本貞喜さんのみが、自決する開拓団の最後を祖国日本に報告する任務を負い、団から脱出。残る275名は集団自決した。その中には、宮本さんの妻子、孫も含まれていた。) /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路23
奥村正雄
昨年、4月8日に方正の帰国者たちと催した「歓賞桜花」の会は、雲一つない絶好の天気に恵まれて、中国では経験したことのなかった「お花見」という日本の伝統文化を、中国帰国者たちに堪能してもらうことができた。しかもこの催しを盛り上げたのが、帰国3世の纐纈夢翔ちゃん(小1)が躍る軽快な踊りと、彼女の祖父・田文学さんが披露した中国東北3省で古くから伝わる「二人転」の歌だったことは本誌14号で既報の通りである。この話が帰国者たちに伝わって、今年は70人の大パーティになるはずだった。 /// 続きは本誌ご参照
石さんの特約情報28
石金楷(ハルピン養父母懇親会事務局長)
昨年12月13日から16日まで、日本の著名な日中友好の活動家で[ABC企画委員会]のメンバーである山辺悠喜子さん一行4人が731部隊陳列館を訪問、熱烈な歓迎を受けた。彼女は1929年1月10日、東京で生まれ、1941年、本渓鋼鉄会社で勤務の父親と合流。1945年の敗戦後、16歳の彼女は中国東北民主連合軍に参加、中国人民解放軍のメンバーとして中国人民解放戦争に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
満州事変の導火線「中村大尉殺害事件」30
高橋健男
2011~2012年は満州事変・満州国建国から80年ということで、ジャーナリズムや書籍等、関連特集がいくつも見られた。満州開拓団に関心を持つひとりとして、満州国建国から開拓団の送出につながる時代の一大変化を引き起こした満州事変に関しても知らないで過ごすわけにはいかない。 /// 続きは本誌ご参照
ちきゅう時の散歩:稲作で日中の架け橋―藤原長作・方正41
竹内誠一郎(読売新聞)     転載元:読売新聞(2013年2月1日付夕刊)
中国の「氷都」と呼ばれる黒竜江省ハルビンから東に約200キロの方正。一面に広がる雪原は秋になれば、黄金色の稲穂で埋め尽くされる。中国で「水稲王」と呼ばれた藤原長作が、1980年代に稲作技術を伝えたこの地は今、「中国で最もうまいコメの産地」と知られる。 /// 続きは本誌ご参照
第5回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する:周恩来の国際主義的精神を噛みしめて一ハルピン・方正、引揚の港・葫蘆島と周恩来鄧穎超記念館を訪ねる42
社団法人日中科学技術文化センター、方正友好交流の会
今回は、「周恩来の国際主義的精神を噛みしめて」というタイトルの下、方正日本人公墓、731部隊罪証陳列館(残留孤児、中国人養父母に関する常設展)、残留日本人引き揚港の葫蘆島、天津では周恩来鄧穎超記念館を視察する。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン氷祭りの旅(2014)43
方正友好交流の会
1月29日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い44
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
中国のお笑い―伝統話芸“相声”の魅力―戸張東夫著45
大類善啓
上記『中国のお笑い』書評拙文は、(公社)日本友好協会の旬刊新聞『日本と中国』に掲載したものである。この本のサプタイトルは「伝統話芸“相声”の魅力」、帯は「笑いに国境などない!」である。前号『星火方正』15号に「垂水健一さんを偲ぶ」という原稿を書いた。文中には、垂水さんの後を継いで『日本と中国』の編集長になった経緯などを書いた。ところがこの号が出た後、諸般の事情で編集長を辞めることになった。私事であるがご報告しておきたい。なお、『日本と中国』はこの6月から月刊になるとのことである。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内46
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『東京満蒙開拓団(東京の満蒙開拓団を知る会著)』、『戦場へ征く、戦場から還る一火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士(神子島健著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記47
大類善啓
いつも5月発行の会報は、夏の訪中記がある12月発行の号ほどの厚さはない。しかし要は内容である。これからも、会報にふさわしいと思われる原稿をどしどしお寄せいただきたい。 /// 続きは本誌ご参照
 
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