方正友好交流の会
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星火方正
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第14号(2012年5月発行) / 1冊25記事 を表示しています。

  第14号(2012年5月発行) 第14号(2012年5月発行)表紙

人類の善意と希望を信じて1
宮本雄二
私は2007年の秋、城戸久枝さんの『あの戦争から遠く離れて~私につながる歴史をたどる旅』を読んだ。残留孤児であった父親の、日本では黙して語らなかった中国時代のことを知る旅の記録であった。そこで「方正県」を生々しい、あの時代の多くの日本人の感情とともに知ることができた。そして私は、大使として黒龍江省を公式に訪問する場合には、必ず方正県を訪れ、養父母と地元の方々に感謝の気持ちを伝え、そこに眠る日中双方の方々に私の慰霊の気持ちを伝えたかった。 /// 続きは本誌ご参照
参考:宮本大使方正訪問関連記事2
編集部     転載元:『星火方正』6号(2008年5月)
星火方正6号表紙写真、黒竜江日報(2008年1月15日付)、日本と中国(2011年3月5日号)などの転載。 /// 続きは本誌ご参照
方正「石碑事件」のその後5
大類善啓
昨2011年の7月末から8月初旬に方正県で起きた、いわゆる「石碑撤去事件」から9ヶ月ほど経つ。事件直後に巻き起こった中国のインターネット上でのかまびすしい“議論”も一段落したようである。閉鎖されていた「中日友好園林」も開放され、公墓参拝もできるようになった。しかしこれで全て一件落着というほど、心安らかになったわけではない。「事件」から見えてきた思わぬ現実もある。次頁以降に掲載した中国での論文を掲載したのも、そういう現実を日本の人々に知ってほしかったからである。もちろん、掲載した二つの論文に賛意したわけではない。今回、劉論文に対する批判を含めて少しばかり感想を述べたい。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:ペンキ事件についての私見8
奥村正雄
1945年夏から翌年春にかけて、ここで亡くなった同胞は4500人前後、と言われてきた。しかしこれはあくまで概数であり、当時ここへ辿りついた後、祖国に帰りついた各地の開拓団から,方正で犠牲になった犠牲者の氏名を調べだし、犠牲者の全体像を把握する組織的な作業は、残念ながら行われてこなかった。開拓団を送りだした各県の関係者は、これまで毎年、夏から秋にかけて「拓魂祭」などの名称で慰霊の行事を行ってきたし、今も、すでに高齢になったが壮健な帰国者やその2世3世々代や、友好団体などによって、行事は行われているところが少なくない。 /// 続きは本誌ご参照
慰霊碑撤去騒ぎの方正を行く10
高橋茂男
昨年8月初め、アムール河を挟んでロシアと向かい合う国境の街・黒河などを見てハルビンに戻ると、方正県で満州開拓団の慰霊碑をめぐる事件が持ち上がっていた。一緒に旅行していた私と2人の友人はいずれも中国に駐在した経験のある元ジャーナリストで、習い性というか何か事が起きると現場に行きたくなってしまう。予定を変更し、私たちに付いている中国人ガイドも交えて方正行きを検討することにした。 /// 続きは本誌ご参照
方正「開拓団」石碑事件の真相を追う14
高振凌(ハルピン市経済研究所旅行・文化産業研究センター分析員)
もしも温家宝総理が2007年日本を訪間した時に、日本の国会で日本の残留孤児が方正の養父母のため友好園林に「養父母の碑」を建てたことに言及しなかったならば、方正という人口わずか数十万人の小さな地方都市は、永遠にマスメディアの視野に入らなかっただろう。そしてまた、時の日本駐中国全権大使・宮本雄二氏はすぐさま方正を訪ね、中日友好園林の日本人公墓を見学。その後日本政府は日本人公墓に修復費用を出した。方正をめぐる中日外交の不安定さは基本的に成り立たなくなるかもしれない。 /// 続きは本誌ご参照
日本開拓団の死亡者名を刻んだ石碑建立を批判する16
劉同塵
最近、中国インタネット・サイト‘鉄血社エリア’で、ハルピン市経済研究所、観光文化産業研究センター、研究分析員高振凌氏の論文《方正県石碑建立事件真相を見て、石碑建立行為を、再度、批判、罵倒する》を読み、彼の論文中に引用された《日本開拓団民死亡者名簿》の全文を拝読した。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓 立ち入り再開へ―中国・方正県 石碑問題で作夏から規制19
信濃毎日新聞     転載元:信濃毎日新聞(2012年4月28日付朝刊)
日本と中国のぎくしゃくした関係を背景に昨夏以降、中国黒竜江省方正県にある旧満州(中国東北部)開拓団員らの共同の墓「日本人公墓」に近づけない状態が続いていたが、5月にも立ち入り可能になることが27日、友好団体関係者らの話で分かった。昨夏、方正県が亡くなった旧開拓団員の名を刻んだ石碑を公墓近くに建てようとしたところ、同国内で激しい反対が起きた影響で公墓に近づけなかった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路2:庵谷さんとの別れ20
奥村正雄
庵谷磐(元中国残留孤児問題全国協議会会長)さんが亡くなられた。訃報に接して私は動揺した。じっとしていられず、1月13日、東京・西五反田の桐ケ谷斎場へ駆けつけた。祭壇に飾られた、おびただしい供花の中に「東大スケート部」の名があって、祭壇中央に飾られた柔和な遺影が「知らなかっただろう?」と微笑まれたような気がした。いっぽう、多くの会葬者の中に、一人も見知った顔がなかった。当然、会葬者としてお会いできるだろうと思っていた何人かの顔がなかった。どうして?自問するうち、気がついた。私の頭に浮かんだ、庵谷さんがお元気なころに、同じように活躍しておられた残留孤児支援の先輩たちは、もうここまで弔問に足を運ぶパワーが亡くなっておられるのだ、と。 /// 続きは本誌ご参照
求め続けた「血の通う行政」―元中国残留孤児問題全国協議会会長・庵谷磐さん22
大久保真紀(朝日新聞)     転載元:朝日新聞(2012年12月18日付夕刊)
敗戦前後の混乱で中国に残された日本人孤児、残留婦人らを長年支援した。彼らの存在が生まれた原因を見つめ、「国の責任」を問い続けた人だった。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路3:桜が語る去年とことし23
奥村正雄
中国帰国者とその支援者、中国語学習者らに呼びかけたら30人あまりが集まった。天気は絶好、微風。各自が昼食、飲み物持参と伝えたが、帰国者たちは「そんなの私たちの生活習慣にはない」とでも言わんばかりに、持ってきたご馳走を広げるわ広げるわ……、広いブルーシートの半分は、帰国者纐纈代美子さん家族が持ってきた料理で埋めつくされた。唯一、私たちが用意した材料とシチュウ鍋で、知らぬ間に豚汁を作ってくれたのは、代美子さんの嫁さん優理恵さん。その小学校新1年生になったばかりの娘、夢翔ちゃんが、紙のどんぶりにお母さんが入れた豚汁を両手で捧げて配って歩く。 /// 続きは本誌ご参照
養父母の会が嬉しい悲鳴―日中国交回復40周年で連日、研究者、マスコミが来訪25
石金楷(事務局長)
4月3日から6日にかけて、山東大学歴史文化大学副教授・趙彦民さんがハルピン市を訪問。当連絡会は日本の残留孤児の養父母及び中国に残る残留孤児との話し合いをセッティングした。またハルピン市民主郷に残る「浜江省天理村開拓団」の跡地を案内した。 /// 続きは本誌ご参照
何故、悲劇が生じたか―満洲開拓団員の敗戦・逃避行時惨状要因の一考察27
宮下春男
昭和20(1945)年8月9日未明、日ソ中立条約を破ってソ連軍が「満洲」に侵攻した時、満ソ国境近くに配償・入植させられていた多くの満洲開拓団は、関東軍や満洲国政府からはソ連の動向に関する事前情報は一切なかった。突然の避難命令・指示に驚き、第二の故郷と決意して家族共々住みついた土地を離れる事への戸惑い、上地への執着、あくまで現地に残留するか、或いは生きるために都市部への避難を余儀なくされた開拓団員と家族の多くは、逃避の途次または残留地でソ連軍兵士や暴徒と化した近隣原住民、匪賊と称した反乱逃亡中の満洲国軍の元兵士・元警察官、労エとして使役、鉱山等に徴発されていた元農民等からの略奪・襲撃を受け、未曾有の凄惨な被害を受けた。特に自殺・自決を含めた死に至る人的被害の状況は想定されるあらゆる形態があり、その悲惨さは筆舌に尽くし難いものがある。 /// 続きは本誌ご参照
NHKの「開拓者たち」を視て36
宮下春男
平成23年12月中旬頃にHPを検索していてNHKが元日の夜、BSプレミアムで満洲開拓団の事跡をドラマとして放送することを知った。満洲開拓団は「満洲国」の消滅と共に歴史に埋没していると感じていたのでNHKが一つの開拓団とは言えその終始を纏めてくれたことに、大きな期待を持った。最近は劇物を見ないので主演の満島ひかりさんがどんな方かも知らず、しかし、この時期に取上げてくれた背景は開拓団の歴史的評価と、敗戦により悲惨な逃避行と多くの犠牲者を出しながら、無事帰国できた人達が不撓不屈の精神と共同の力で国内の原野を開拓する、それは東日本大震災に遭われた方々への激励、鼓舞のメッセージかとも思っていた。 /// 続きは本誌ご参照
歴史の悲劇を二度と繰り返さないで一方正出身の私にできること39
河俣美慧子
こんにちは、河俣美慧子(中国名:張威威)です。1976年9月に方正県の天門郷に生まれ、学校を卒業してから北京でアルバイトをしながら歌を勉強しました。特にテレサ・テンの歌がとても好きです。北京から帰郷し、小学校の代理教員として1年余り勤めました。現在は外国人実習生を紹介する組合で通訳として勤めています。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路4:米欧に亡命者を追う―翰光『亡命一遥かなり天安門』を読む40
奥村正雄
新聞で方励之の訃報を知った。天安門事件(1989年)の最重要人物として政府の追及を逃れ、北京の大使館経由でアメリカに亡命した著名な理論物理学者である。1936年生まれだから私より5歳も若い。この方励之のほか、映画『古井戸』の原作者で作家の鄭義、ノーベル賞受賞者の劇作家・高行健、詩人の黄翔、天安門事件の学生リーダーとして6年間入獄、その後アメリカに亡命した王丹…などフランス、スウエーデン、アメリカほか、著名な亡命者のいる国々を回ってインタビューし、映画のカメラを回し続けた翰光さんが、その克明な記録を出版した。『亡命一遥かなり天安門』(岩波書店、3300円+税)である。 /// 続きは本誌ご参照
「満蒙開拓平和記念館」、今夏いよいよ着工へ42
寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会専務理事)
「星火方正」前号(13号)にても既報の通り、満蒙開拓に特化した唯一の「満蒙開拓平和記念館」が足かけ6年を経てようやく建設実現間近まで漕ぎつけることが出来、今年8月までには本体工事着工、来年春の開館予定となりました。来年のGWまでには何とか開館したいものと予定しています。 /// 続きは本誌ご参照
開拓の悲劇 語り継ぐ―「満蒙記念館」長野に建設へ46
吉田幸雄(東京新聞)     転載元:東京新聞(2012年4月5日付夕刊)
全国初の「満蒙開拓平和記念館」が長野県阿智村に建設されることになった。六年がかりで計画を進めてきた事業準備会は来年四月末の開館を目指しており、資料の提供を呼ぴ掛けている。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2012)47
方正友好交流の会
6月27日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」~第8回48
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出してほしい」と要望した。その言菓を重く受け止めた韓は日本に戻ると、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。憧れの作家であった巴金や中国一の大スターである趙丹らと親しくなった。文革という厳しい時代を経て、新たな展開が始まろうとしていた。 /// 続きは本誌ご参照
木村拓哉、中国について語る―「目と目を見合わせて話せばきっとわかる」57
大類善啓     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年5月5日)
昨年の9月16日、日本を代表する人気男性グループSMAP(スマップ)の北京公演が行われ、内外ともに大変な話題を呼んだ。そのメンバーの一人である木村拓哉さんは、多くの人たちからキムタクと呼ばれて親しまれ、絶大なる人気者だ。1972年生まれ。「日中か国交正常化してからの40年はまったく僕の人生と同じ時間。10代や20代のころは中国で公演するなんて思ってもみなかったけど、今になってようやく中国に目を向ける場にいるということがなんだか不思議な感じがする」と言う木村さんだ。超多忙なスケジュールの中の4月7日、インタピューに応じてくれ、中国について思うところを語ってくれた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い58
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
満洲 奇跡の脱出―170万同胞を救うべく立ち上がった3人の男たち(ポール・邦明・マルヤマ著、高作自子訳)59
加藤千洋     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2012年3月5日)
終戦時、関東軍ら軍関係者がいち早く脱出し、ソ連侵攻・満州国解体という流動的な情勢の中、満州に取り残された開拓団員ら百数十万人の民間人は塗炭の苦しみを味わい、現地で命を落とす人も多かった。それゆえに「満州棄民」の言葉もうまれた。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内60
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『幻の松花部隊若き義勇隊員たちの満州(高橋健男著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』、『記憶にであう一中国荒土高原紅棗がみのる村から(大野のり子著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記61
大類善啓
今号は期せずして昨年の夏、方正で起きた石碑事件に関する原稿が多い。「石碑事件」「ペンキ事件」「慰霊碑撤去騒ぎ」と、各氏さまざまに呼び名が違う。この事件についての思いや感想もまた微妙に違う。それでいいと思う。 /// 続きは本誌ご参照
 
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