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第13号(2011年12月発行) / 1冊 の 45記事 を表示しています。
- いわゆる「石碑問題」について考える一石碑問題発生までの経緯1
- 大類善啓
- 降って湧いたような事件だった、というのが今、正直な感想だ。ここでは、「間題」に至った経緯を述べてみよう。7月28日の「第16回方正県蓮の花祭典」と翌29日に開催された中日文化交流会の催し(別項で詳しく述べる)に県政府から招かれ、両日は方正県にいた。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満州開拓団の石碑撤去―国民からの疑問に苦慮3
- 日中友好協会
転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年9月5日)
- 日中友好を目的に中国黒竜江省の方正県政府が建設した旧満州開拓団員約250人の名前が刻まれた石碑が、8月5日夜から6日早朝の間に同県政府によって撤去された。 /// 続きは本誌ご参照
- 「開拓民」石碑撤去について4
- 大類善啓
転載元:日中友好新聞(2011年9月5日付)
- 黒龍江省方正県に「方正地区日本人公墓」(1963年建立)と「麻山地区日本人公墓」(1984年建立)という二つの日本人公墓が中国政府によって建立されている。その公墓のすぐ後方に、「日本開拓民亡者名録」なる石碑が7月25日に建立された。 /// 続きは本誌ご参照
- 黒竜江省で建立関係者献花―旧満州開拓団員の死 石碑に刻む5
- 信濃毎日新聞
転載元:信濃毎日新聞(2011年7月29日付朝刊)
- 【方正県共同】中国黒竜江省ハルビン市郊外の方正県にある「中日友好園林」で、敗戦時の引き揚げ途中に死亡した日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が、団員の眠る共同の墓「日本人公墓」のそばに建てられ、松本盛雄駐藩陽総領事ら日中の関係者が28日、墓前に献花した。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満州開拓団の石碑にペンキー反日団体関与認める6
- 信濃毎日新聞
転載元:信濃毎日新聞(2011年8月4日付朝刊)
- 【北京共同】中国黒竜江省方正県が建てた日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑に3日午後、中国人とみられる男5人がペンキをかけたことが分かった。地元関係者が明らかにした。関係者らによると、5人は開拓団員の氏名が刻まれた面に赤いペンキをかけ、地元警察に連行されたという。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本人入植者の石碑ペンキかけられる―中国・黒竜江省7
- 比嘉清太(読売新聞)
転載元:読売新聞(2011年8月4日付朝刊)
- 尖閣諸島に対する中固の領有権を主張する中国の民間団体「中国民間保釣連合会」は3日、敗戦時に死亡した日人入植者の名前を刻んで、黒竜江省・方正眼に新設された石碑にペンキをかけたことを明らかにした。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満蒙開拓の慰霊碑撤去―中国・方正県 建立から10日余り7
- 西村大輔(朝日新聞)
転載元:朝日新聞(2011年8月7日付)
- 中国黒竜江省方正県にある日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、建立からわずか10日余りで県当局によって撤去された模様だ。地元関係者が明らかにした。国内で「侵略者の慰霊碑をなぜ建てるのか」といった厳しい批判にさらされ、ペンキをかけられるなどしていた。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満州開拓団の石碑撤去―中国 方正県政府が「処分」か8
- 信濃毎日新聞
転載元:信濃毎日新聞(2011年8月7日付)
- 【北京共同】6日付の中国夕刊紙、法制晩報は、黒竜江省方正県で、日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が、同日朝までに取り壊れ、撤去されたと報じた。石碑に対しては中国国内で強い反発が出ており、同紙によると、方正県当局はインターネット上で、石碑を処分する方針を示したという。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満蒙開拓団の慰霊碑撤去―当局と反日団体 圧力か9
- 矢板明夫(産経新聞)
転載元:産経新聞(2011年8月7日付)
- 中国黒竜江省方正県が7月末に同県の中日友好園林の中に建てた日本の旧満蒙開拓団員の慰霊碑が、5日夜から6日未明にかけて撤去されたことがわかった。中国当局と国内の反日団体などからの強い圧力が原因とみられる。6日付の中国夕刊紙、法制晩報など複数の中国メディアが明らかにした。 /// 続きは本誌ご参照
- 親日の街に矛先―中国・方正県 慰霊碑撤去10
- 西村大輔(朝日新聞)
転載元:朝日新聞(2011年8月8日付)
- 日本の満蒙開拓団の慰霊碑建立が中国で激しい批判を招いた黒竜江省方正県は、極めて親日的な土地柄だ。商店の看板に日本語訳を併記する県独自の取り組みも進めてきたが、「反日」の矛先はこうした取り組みにも向かう。「『親日』は割に合わない」。住民の気持ちは揺れている。 /// 続きは本誌ご参照
- 旧満蒙開拓団の碑 中国で波紋―設置と撤去めぐり論争11
- 小寺松雄(しんぶん赤旗)
転載元:しんぶん赤旗(2011年8月8日付)
- 中国東北部の黒竜江省方正県に7月末に建てられた旧日本満蒙開拓団の記念碑が設置から10日余で撤去されたことで、改めて開拓団やその記念碑をめぐる論議が高まっています。 /// 続きは本誌ご参照
- 残留邦人の街 大揺れ―開拓団の慰霊碑撤去 中国・方正県12
- 花田仁美(信濃毎日新聞)
転載元:信濃毎日新聞(2011年8月20日付朝刊)
- 中国黒竜江省方正県が建てた長野県出身者など日本の旧満州開拓団員の氏名を刻んだ慰霊の石碑が中国国内で激しい反発を招き、わずか10日余りで撤去された。多くの中国残留日本人孤児が育ち、日本との経済的な結び付きも強い同県だが、インターネット上で広がる予想以上の批判に、住民からは戸惑いの声も上がる。 /// 続きは本誌ご参照
- 辛亥革命100年・中国の実像:「愛国」ゆがむ中国社会―日本の石碑壊し「英雄」・米大使就任「裏切り」13
- 読売新聞
転載元:読売新聞(2011年10月5日付朝刊)
- 建国を祝う1日からの国慶節連休を迎え、内外の行楽客でごった返す北京の天安門広場。巨大な2人の肖像画が南北に向き合っている。清朝を倒して王朝の歴史にピリオドを打った辛亥革命の主導者・孫文と、その革命を引き継ぎ、共産主義思想によって中華人民共和国を樹立した毛沢東だ。両者の対置は、孫文が唱えた「中華振興」を誇示し、革命の正当性を世界に訴える舞台装置である。 /// 続きは本誌ご参照
- 開拓団の慰霊碑撤去は日本で様々な反響を引き起す14
- 三井えい子〔徐志玉〕(VOA(ヴォイスオブアメリカ)放送記者)
- 《解説》VOA、Voice of Americaの三井えい子(徐志玉)さんから取材の電話があった時は少しばかり驚いた。VOAはアメリカの国営放送である。かつて日本でもVOAの日本語放送はあったが、今は聞かれることはない。調べてみれば、戦後はプロパガンダの要素もあったが、すでに日本には十分に世界からの情報が行き渡っており、わざわざアメリカから情報発信する必要はないと判断され、日本語放送は1970年に廃止されたようである。VOAの中国語放送は英語放送に次ぐ大きな発信力を持ち、今も毎日ワシントンから中国全上及び世界の中国語を使用するエリアに放送を継続している。三井さんは東京在住のVOAの特約記者であり、原稿は三井さんが書かれ、放送は北京語で8月8日、アメリカのワシントンから中国全士に向けて発信された。以下、三井さんに日本語訳をしていただいたものを掲載する。(大類) /// 続きは本誌ご参照
- 方正県政府から瀋陽総領事館に寄付金と当会にお見舞い状(大類善啓事務局長による礼状も添付)16
- 方正友好交流の会
- 3月11日の東日本大震災と原発人災事故に対して、方正県政府からすぐに以下のようなお見舞い状が来た。また5月10日には、県政府は元県委書記の佟宝剛氏、県長の劉軍氏(現在は書記)、外事弁公室の王偉新主任らが瀋陽総領事館を訪ね、松本盛雄総領事と会談、見舞金として10万元を寄付した。 /// 続きは本誌ご参照
- 15年ぶりに方正を訪ねて一方正県日本語学校を訪問18
- 牧野史敬
- 9月12日、新潟からハルビン経由で夕刻、6時過ぎに方正に着く。昔と違ってネオンサインが輝く方正だった。懐かしい王鳳山先生、陳福堂先生(両氏とも1989年以来の交友)のお出迎えを受けた。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正県日本語学校の創立について21
- 王鳳山(方正県日本語学校名誉校長)
- 方正県日本語学校は1993年4月1日にオープンしたが、設立が決まったのは1992年10月である。当時、県委員会書記・鄭鴻徳を団長とする代表団が日本訪問中、日本の方正地区支援交流の会会長・石井貫ー先生、専務・牧野史敬先生の提案でハルピン市教育委員会に申請して認可を得たのがこの学校である。 /// 続きは本誌ご参照
- 心に生きる藤原長作先生23
- 柳長青(方正県日本語学校校長)
- 1981年4月、藤原長作先生が方正に来られて水稲寒地早育稀植(水稲寒地の保温折衷苗代と粗植法)技術試験をされたとき、私は徳喜郷政府で仕事をしており、郷共産党委員会の書記をしていた。徳喜郷は県都市部と近いこともあって、県政府は藤原長作先生の試験田を徳喜郷富余村西部の27ムー(180アール)の稲田としたことから、私は藤原先生とお会いし、二年間の仕事をご一緒する機会にめぐまれた。 /// 続きは本誌ご参照
- 稲で地域を豊かにする黒龍江省方正県25
- 斎藤春夫
- 方正県や黒龍江省との農業交流の可能性を探るため、方正県を訪問した。ここはかつて1980年代に岩手県沢内村の農家、藤原長作さんが自分の持てる稲作り技術のすべてを伝えたところだ。「干育疎植栽培」(健苗作りと疎植植え)を特徴とする藤原式稲作の実験田がこれまで得たこともない高い収量を上げたことで、多くの農家に支持者が広がったところである。藤原さんのことは今回お会いした黒龍江省や方正県の方々の胸の内に強く刻まれていた。 /// 続きは本誌ご参照
- 初めて方正県を旅して27
- 松木千明
- 今回方正県を旅することになったのは、祖父が行くので中国に対する興味もあり、一緒について行くことにしました。方正県は、ハルピン市からバスで2時間程の所にあります。バスからは見渡す限りトウモロコシ畑が広がり、道路の脇には道が続く限りコスモスがきれいに咲き並んでいました。中国の広さを実感することができました。 /// 続きは本誌ご参照
- 高野山真言宗による慰霊法要が営まれる28
- 大類善啓
- 高野山真言宗の僧侶、竹井成範さんとご縁ができたのは、木村直美さんとの関係である。木村さんは、「方正友好交流の会」の前身である「ハルビン市方正地区支援交流の会」会長だった石井貫ーさんをずっと支えてこられ、その延長上で現在の会でも参与として活動していただいている。岡山の実家の菩提寺は真言宗である。 /// 続きは本誌ご参照
- ハルピン市方正県の日本人公墓を参拝して30
- 藤本善光
- 私は今年の6月7日、竹井成範・宗会議員の誘いを受け、本山の山林部長・岡部兼海僧正をはじめ、岡山県備中南真会の有志の方々に同行させていただき、中国東北地方(旧満洲)黒竜江省ハルピン市郊外の方正県に建立されている日本人公墓を参拝するご縁に恵まれました。 /// 続きは本誌ご参照
- ハルビンで生まれた私にとって中国は故郷です。(直筆書簡)32
- 加藤登紀子
- ハルビンで生まれた私にとって中国は故郷です。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本人公墓の維持管理感謝申し上げます!33
- 姫井由美子(日中交流協議機構長城計画訪中団、日本国参議院議員)
- 日中国交正常化以前の1963年、ハルビン市方正県に、約4500人を祀る日本人公墓を中国政府は建立してくださいました。この建立にを英断されました故・周恩来総理の広い寛容なる国際主義的友愛精神に深く感動するともに篤く御礼申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正県人民政府御中34
- 玉置公良(衆議院議員)
- 方正県人民政府の皆様の日々のご活躍に心よりの敬意を表します。来年で日中両国が国交を正常化して40年になります。記念すべき節目ということで、両国で様々な交流行事が行われるでしょう。 /// 続きは本誌ご参照
- 知られざる丸山邦雄氏らの在満日本人救済活動―在満邦人救済代表団の活動記録について35
- 寺沢秀文
- 終戦後、旧満州に取り残された開拓団員らを含む多数の在満邦人。関東軍関係者や開拓団員以外の邦人らの大半が我先にと逃げ出してしまった後、戦場と化した開拓地等に置き去りにされ、ソ連軍の襲撃や集団自決等で多くの犠牲を出しながらようやく生き延びた開拓団員らは、「在外邦人は現地で生き延びよ」という国の方針のために、終戦の冬にば帰国できることなく、旧満州各地の収容所や旧開拓地等で厳しい越冬生活を強いられることになります。そこでまた多くの邦人が飢えや流行病のために犠牲になりました。 /// 続きは本誌ご参照
- 「満蒙開拓平和記念館」事業の進捗状況等について40
- 寺沢秀文(「満蒙開拓平和記念館」事業準備会・事務局長)
- 「方正友好交流の会」の関係者始め全国各地の皆さんからの温かいご支援を頂きつつ、長野県南端の下伊那郡阿智村内にて建設準備を進めている「満蒙開拓平和記念館」の現在の進捗状況等について、これまでの経過並びに今後の予定等も含め、以下の通りご報告申し上げます。 /// 続きは本誌ご参照
- 731跡地に謝罪と不戦の碑45
- 石金楷(ハルピン市日本残留孤児義父母連絡会事務局長)
- 2011年7月9日、ハルピンの731部隊跡地で、日本の民間団体[A(核兵器)B(細菌兵器)C(化学兵器)企画委員会]が発起人となり、資金を集めて建立した「謝罪と不戦平和の碑」の開幕式が行われた。ハルピン市残留孤児養父母連絡会の胡暁慧名誉会長と石金楷事務局長が招かれて出席した。この席で侵略日本軍731部隊罪証陳列館の金成民館長が挨拶の中でこう述べた。 /// 続きは本誌ご参照
- 日本の被災地への募金セレモニーを実施―ハルピン市中国残留日本人孤児養父母連絡会47
- 石金楷
- 2011年3月19日午後2時、ハルピン市中国残留日本人孤児養父母連絡会は、ハルピン市赤十字会募金センターにおいて、日本の被災地への募金セレモニーを行ない、20数名がこの活動に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
- わたしの方正之路1:山西省の洞穴暮らし6年半―侵略の聞き書きを続ける女性65歳48
- 奥村正雄
- たかだか年に1回、希望者を伴って1泊2日の方正地区日本人公募訪問を続けている80歳翁・小生の感傷など、吹けば飛ぶような軽さに思えてくる。これは、それほど心に重くのしかかる本だ。大野のり子編『黄士地上来了日本人ー中国山西省三光政策村の記憶』である。 /// 続きは本誌ご参照
- わたしの方正之路2:徐士蘭さんの来日49
- 奥村正雄
- 別れてからそろそろ半年になろうというのに、いまもまだ彼女のまなざしが目の前から消えない。同じ体験が前に一度だけあった。49年前、方正地区日本人公墓の建設を主導した松田ちゑさんと、彼女が日本へ帰国して間もなく、初めて会った時である。 /// 続きは本誌ご参照
- ようこそ、徐士蘭さん!54
- 山川禎一
- 一人の「残留孤児」の来日が、多くの時間と関係者の努力によって実現した。その歓迎会が6月11日、千葉市幕張で開かれ、私も参加した(翌12日には東京でも開催)。来日したのは「徐士蘭」さんと三女の「叢会霞」さんの二人である。 /// 続きは本誌ご参照
- 「自分は何者 証明を」―未認定一時帰国 祖国の土踏み楽に56
- 竹内良和(毎日新聞)
転載元:毎日新聞(2011年6月15日付朝刊)
- 中国残留孤児の認定が受けられていない中国・黒竜江省方正県に住む徐士蘭さん(推定69歳)が、初の「一時帰国」を果たした。昨年度、日中両政府が確認した残留孤児は調査開始の81年以来、初めてゼロになったが、徐さんと同様、物的証拠や証言者が乏しく、認定されない人は相当数に上るとみられる。支援団体によると、末認定の「残留孤児」が自主的に帰国するのは珍しいという。 /// 続きは本誌ご参照
- 蓮の花祭典と中日文化交流会に招かれて57
- 大類善啓
- 高野山真言宗の慰霊法要のため、6月方正県を訪れた。真言宗のご住職、竹井成範さんのお誘いだ。その折り外事弁公室の王偉新主任から、7月に中日文化交流会を開催するから来てくれないかと言われた。詳細な内容はこれからだという。7月といえば1カ月余だ。正直言って開催できるのか危惧したが杞憂だった。 /// 続きは本誌ご参照
- 一視同仁の思想を体現した日本人公墓―一番拍手が少なかった中日文化交流会での大類スピーチ(※中文も添付)60
- 大類善啓
- 方正友好交流の会を代表して、ご挨拶申し上げます。まず、「蓮の花祭典」をお祝い申し上げますとともに、この素睛らしい日にお招きいただきありがとうございます。さて日本は、3月11日に未曽有の体験をいたしました。一つは日本の東北を襲った大震災です。その次に、大津波が生じ、多くの死者と行方不明者を生み出しました。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が、2万人を超えたのは戦後初めてです。そして次に福島原子力発電所の事故が起こりました。 /// 続きは本誌ご参照
- 千の風になっていた弟たち64
- 小出公司
- 「満州開拓史」研究家、高橋健男先生(新潟県見附市)寄稿の星火方正会報11号で、昨秋哈達河開拓団の麻山事件自決名簿の記録に残る東伯母夫婦の養子になった弟二人を、新潟の兄が個人で慰霊に出かけ、65年にして念願を叶えてきたとの紹介をいただきました。この拙文は、先生が言う「人を弔う」「問い訪ねる」の言葉そのものの私の体験談です。 /// 続きは本誌ご参照
- 近現代の歴史検証旅行に3回参加して71
- 小関光二
- 私は平成14年度を最後に退職して以来、現役時代の経験と知識を生かし環境問題のボランティアをしております。その活動範囲は、地元が中心ですが日中科学技術交流協会などのプロジェクトを通じ中国との環境交流も行ってまいりました。交流は学者、政府職員、工場の方々が主ですが活動を支える若い方々との交流もしてまいりました。そのとき感じたことは環境交流については何ら問題ないのですが、若い中国のスタッフの中には、日本に対してわだかまりを持っているのではと感じることもありました。 /// 続きは本誌ご参照
- 加害と被害一中国の旅から76
- 宮崎敦子
- 1981年8月。私は民間の教育団体が企画した「東西ヨーロッパの旅」で、冷戦下の西ベルリンから、壁の向こうの東ベルリンに入ったバスの中にいた。東ベルリンに入ったバスに、ビシッとした制服を着た女性係官が入ってきた。彼女は、息の詰まるような緊張感を振りまきながら、私たちツアー客の一人一人のパスポートをチェックしていった。やがて、彼女が立ち去ると、車内のあちこちから安堵の声が聞こえてきた。 /// 続きは本誌ご参照
- 「満洲開拓団」の入植地は人間トーチカだった78
- 宮下春男
- 「国防の要点は人にある、特にその配分布置にある。」この文を読んでなんと考えられたでしょうか。軍隊!!その通り!軍隊・軍人以外に何が考えられましょうか。しかし続きを読んでいただきたい。「某国においては開拓団の設定や義勇隊訓練所の設置を以って『日本は満洲において人間トーチカを造りつつある』といって怖れているとのことである」。これが満洲開拓団の配分布置として「満洲開拓年鑑」に書かれた文章であります。某国とはソ連(当時)を指すものと思われるが、昭和19年4月に印刷された民間の雑誌とはいえ根拠なくしてこのような文章は書けまい。 /// 続きは本誌ご参照
- 歴史を歩く:長春の「卡子」、今は昔―大変貌しつつある中国東北部の主要都市85
- 大類善啓
転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年10月25日)
- 「方正友好交流の会」の大類善啓さん(66)はことし9月中旬、長春をはじめ瀋陽、撫順、大連・旅順などの中国東北部を、ジャーナリスト、研究者らとともに訪れた。日本の敗戦後、激しい国共内戦の下、長春市に何が存在し、何が起こったのか。64年後の今、その痕跡を訪ね、検証することで「新中国誕生」にまつわる歴史の深層に触れた。大類さんにルポを寄せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
- 歴史の深層を「見る」ということは…―長春・瀋陽・撫順・大連・旅順を訪ねて86
- 大類善啓
転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2011年11月号)
- 当初この旅は、「卡子」(チャーズと発音し、封鎖線、哨戒所あるいは関所という意味がある)を幼少時に体験された遠藤誉さんと共に、長春での卡子を検証しようという企画だった。しかし急遠、遠藤さんは参加を取り止めたいと言われた。やむを得ない。私が遠藤さんの代わりを務めるとは思えないが、改めて卡子を勉強し直した。 /// 続きは本誌ご参照
- 「方正の会」の顔藤原知秋さんー語学力を日中友好に生かして88
- 方正友好交流の会
- 藤原知秋さんは、方正友好交流の会が発足してからのメンバーで理事を務めている。しかし多忙な通訳の仕事もあって、なかなか当会の仕事にも力を投入できない事情がある。が、とても頼もしい、会のメンバーである。下は、『日中友好新聞』2011年7月5日号のコラムに紹介された彼のプロフィールだ。 /// 続きは本誌ご参照
- 方正日本人公墓への旅(2012)89
- 方正友好交流の会
- 6月27日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
- 方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い90
- 方正友好交流の会
- 1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
- 「中国残留婦人」を知っていますか(東志津著)91
- 大類善啓
転載元:日中友好協会『日本と中国』(2011年10月5日)
- 日本人にとって「満洲」そして「満洲国」とは何だったのか。当時の体験者が年々少なくなりつつある今、本書はその解答を与えてくれる貴重な記録といえるだろう。 /// 続きは本誌ご参照
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「方正友好交流の会」事務局
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-6 日本分譲住宅会館4F 一般社団法人日中科学技術文化センター内
Tel: 03-3295-0411 Fax: 03-3295-0400 E-mail: ohrui@jcst.or.jp
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