方正友好交流の会
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星火方正
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第12号(2011年5月発行) / 1冊28記事 を表示しています。

  第12号(2011年5月発行) 第12号(2011年5月発行)表紙

“縁”は奇なもの一麻山事件と東京開拓団をめぐって1
高橋健男
“縁”は奇妙なもの、『星火方正〗第11号で三つの“縁”を得た。ひとつは『星火方正』第11号の拙稿(p.100)で触れた、麻山事件で「自決Jした弟さん二人の消息を尋ねる新潟市在住の小出公司さんに関すること。小出さんの弟さん二人、昭和8年生まれの正平さんと昭和10年生まれの元也さんは、哈達河開拓団新潟部落に入植していた伯母夫婦の養子になっていた。昭和20年8月10日、ソ連軍の満州侵攻を受けた哈達河開拓団は鶏西に向けて避難を開始した。北海道に住む鈴木(旧姓高橋)幸子さん(終戦時8歳、麻山事件で母と兄弟姉妹を亡くす)はそのとき、「新潟部落の東さん一家の馬車に乗せてもらった」のだという。「東」の姓は小出さんの伯母夫婦の姓である。 /// 続きは本誌ご参照
生と死の世界を繋いだ霊魂5
小出公司
昨年、戦後65年を迎えた。広島、長崎、沖縄など戦争犠牲者の縁故の方々は別として、他の方々には8月15日も特別の日となっていないのかもしれない。特に二代目三代目に至っては、終わりも終わらぬもない、大体米国と戦ったことすら知らない世代だ。しかしここにひとり、「未だ戦後が終わっていない」男がいる。 /// 続きは本誌ご参照
岸壁の婚約者10
清水勝彦
歌謡曲「岸壁の母Jには、みなさんもご存知の通り、実在のモデルがいた。端野いせさんだ。戦地から戻らぬ一人息子、新二さんの消息を求めて昭和25(1950)年1月から6年間、シベリア抑留者を乗せた引揚船が京都府北部の舞鶴港に着くたびに、「もしや、もしや」の思いにかられて東京から駆けつけた。だが、願いは果たされることなく、56(1981)年に81歳で亡くなられた。 /// 続きは本誌ご参照
初めて訪ねた『方正地区日本人公墓』18
芹沢昇雄
昨年(2010年)6月、私たち『撫順の奇蹟を受け継ぐ会』は日中友好協会、紫金草合唱団、中国山地教育を支援する会を含め100名程の団を組み『撫順戦犯管理所60周年式典』に参加してきました。ご存じの方も多いかと思いますが、戦後シベリアに捕虜として収容された元兵士60万人の中から、969名が1950年に旧ソ連から独立後の中国に「戦犯」として引き渡され、「撫順戦犯管理所」に収容されました。もともと此処は中国人を収容するために日本が建てた監獄で溥儀も此処に収容されていました。 /// 続きは本誌ご参照
「写真集・小さな引揚者」、映画「嗚呼 満蒙開拓団」等20
宮下春男
写真集「小さな引揚者 飯山達雄=絵と文」(1985年8月、草土文化刊)を見た。飯山達雄氏は敗戦後に葫蘆島から引揚者を乗せる船で逆に「満洲」へ渡航され、瀋陽市に入り敗戦後の「満洲地区」での避難民を写した、多分唯一の方であろう。資料によれば氏は「在外邦人引揚げの記録一この祖国への切なる慕情」昭和45年、毎日新聞、「敗戦・引揚げの慟哭{写真集ーはるかなる大陸<第三集>}」飯山達雄、昭和54年、国書刊行会及びこの小さな引揚げ者という三部作を発表されているという。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団にいた、叔父叔母が抱えて逝った思い…27
澤田伶子
私が「方正友好交流の会」と出会いましたのは、昨2010年7月19日猛暑のさなか、満蒙研究プロジェクト編集委員会編『満蒙の新しい地平線・衛藤瀋吉先生追悼号』の出版記念会的な集まりが、八重洲ブックセンター会議室で開催された場でした。 /// 続きは本誌ご参照
運命の八月十七日28
澤田京子(岩手県北上市在住、平成年16年84歳で死去)
満州事変後、満蒙開拓団は食糧基地の建設という国策に応じ、入植して行きました。私も、夫が一足先に入植していた下欧根開拓団へ昭和15年に入りました。最初の苦労は何処も同じこと、やがて作物も立派に育つようになって行っていた昭和19年頃から、戦況の悪化のゆえでしょうか、開拓団の中から働き手がどんどん応召して行き、一層、昭和20年5月、6月、7月と応召者は引き続き、労働力不足に悩みながらも、増産、供出の強化へ向けて、老人、婦人、子どもで総力を挙げて懸命に働いていました。中でも最大の間題は、健康な男子は全員出征のため、警備力が落ち、私たち女も片手に鍬を、片手に銃をという毎日でしたが、よもやまさか、関東軍が我々奥地の開拓団を見捨て、先に列車で脱出しているなど、思いも及ばないことでした。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団について39
澤田文衛(北安省慶安県下欧根開拓団)
満蒙開拓団の前身は、武装移民団として、全国より募集した軍隊経験者のみの開拓団であった。初年度、第1次・弥栄(昭和7年)、第2次・千振(昭和8年)東満地帯・牡丹江と佳木斯周辺=シベリアの裏、第3次・瑞穂(昭和9年)北満地帯に入植。これらは、国境第一線の守りを兼ねた試験移民団であった。第4次(昭和10年)より開拓団として新たに発足。一団が、県、あるいは村単位での入植となり、1団3百戸単位の入植となった。 /// 続きは本誌ご参照
映画『嗚呼 満蒙開拓団』に触発されて―残留日本人と私、そして私たちの人生について43
芳村晶好
昨年末(22年11月、12月)宝塚、伊丹、両市で幾度か、映画「嗚呼 満蒙開拓団」を観る機会を得る事が出来ました。(ちなみに、宝塚では上映会は市の主催でもありましたが、実務実行部隊は日本語教育に関わるボランティア団体の<日本語の会ともだち>で私はそのメンバーの1員です) /// 続きは本誌ご参照
残留孤児の父山本慈照翁ゆかりの地長野県阿智村を訪ねる52
吉川雄作(ちば中国帰国者支援交流の会)
昨年5月の本会総会の終わりに、長野県阿智村の「満蒙開拓団平和記念館」準備会事務局の寺沢秀文さんから、建設事業への協力呼びかけがあった。中国残留孤児帰国事業に後半生を捧げた阿智村長岳寺の山本慈照翁については、生前、精力的に活動されていた頃のニュースやNHKの特集番組の断片的な記憶がある程度で、不確かな認識しかない。かねてからぜひ訪ねてみたいと思っていた。2月下旬、「ちば中国帰国者支援交流の会」で、弁護士の宮腰さんから、「ふなばし憲法九条の会」主催の「阿智村を訪ねる旅」への誘いがあり、奥村氏らと共に参加した。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路1:ハラハラ・ドキドキから一転ホッ!一徐士蘭・来日ビザが下りるまで54
奥村正雄
「ニイハオ!まだ黒竜江省から何の連絡もありません。おばあちゃんは焦っています。でも仕方がありません。待つだけです。でも間に合うのでしょうか」このメールは私が3月11日(金)の朝6時5分に送ったメールに対する徐士蘭さんの孫娘・孫洪波さんから届いた返事だ。東北大震災が起きたのはこの8時間後である。徐士蘭さん一家は、訪日ビザがいつまでも下りない事態にイライラしながら、この日本の大災害のニュースに接した。彼らは私の家が大震災の現場からどのくらい離れているかも実感できないまま、「中国の私たちのもとへ避難して来ませんか」とまで言ってきて私を感動させた。 /// 続きは本誌ご参照
私の方正之路2:天理村の日本人墓地が消える!―石金楷さんから緊急アピール56
奥村正雄
敗戦後65年たった旧満州各地には、当時厳しい条件の中で、無念の死を遂げた同胞の埋葬地が数多くある。そのほとんどは時とともに訪れる人も稀で、永劫の時間の中にひっそりと埋没しかかっている。だがハルピンのような市街地では、今年度始まる都市現代化の波に洗われようとしている墓地がある。これを知った、ハルピン日本残留孤児養父母連絡会の事務局長・石金楷さんからSOSが届いた。すぐこれを日本語に訳し、原文とともに天理市川原城町の関係部門に送った。 /// 続きは本誌ご参照
高良眞木さんを偲ぶ58
大類善啓
高良眞木さんが2月1日、肺がんのため逝去された。享年80歳だった。お手紙をいただき電話でお話することはあったが、残念ながらついぞお会いする機会を逸した。本誌にも二度寄稿いただき、本会の発足当初から支援していただいた方である。 /// 続きは本誌ご参照
方正一魂の交流の場60
高良眞木
2004年の夏、小泉首相の度重なる靖国神社参拝で、日中関係は国交正常化以来最悪と言われていた。重慶や北京のサッカー試合では、中国の若者が日本チームに激しいプーイングを浴せていた。ちょうどその頃、元満蒙開拓団関係者から幕参団の一部始終を綴った手紙を頂いた。(以下要約) /// 続きは本誌ご参照
畜産技術専門家掛川庸夫先生の逝去を悼む62
牧野史敬
(株)オービケン代表取締役・畜産技術専門家である掛川庸夫先生は、2010年10月22日、心疾患のため、77歳をもって逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を捧げ、中国黒龍江省ほか各地で称賛される成果を上げられましたことをお伝えします。 /// 続きは本誌ご参照
帝国の終焉―自分史に即して63
山田敬三
柳条湖事件に始まり、アジア・太平洋戦争を経て日本の敗戦に終わる13年11ヶ月の戦いを、かつて鶴見俊輔氏は「十五年戦争」と名付け、「この十五年間(一九三一~四五年)が悪いことだったと思うものにとっては、自分がこの事業に演じた役割に応じて、責任をとることが必要になる」と記した。 /// 続きは本誌ご参照
映画『遥かなるふるさと旅順・大連』に触れて78
大類善啓
2009年2月、羽田さんにインタビューした(09年5月発行の本誌8号掲載)。その折り羽田さんの「本当は、旅順が撮れるようになったら、撮りたいんですよねぇ。どういうふうに撮るかはまだ考えていませんがね」という言葉でインタビューを終えた。当時はまだ旅順が全面開放される前だった。ところが、その8号の編集を終える段階の4月、旅順口区の区長が、その年の秋には旅順を全面開放すると語った、という記事が目に入った。すぐに羽田さんに電話を入れた。 /// 続きは本誌ご参照
なぜ今「遥かなるふるさと一旅順・大連」なのか…79
羽田澄子
私は1926年1月3日、大連で生まれました。大正15年・昭和元年でもあります。父は大連の弥生高等女学校の教師でした。大連は中国東北部の最南端、関東州の都市で、日清戦争に勝利した日本が清(中国)から租借したのですが、そのことに反対する、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって清に戻され、ロシアが租借してしまいました。帝政ロシアによって大連の街は建設されました。 /// 続きは本誌ご参照
慰問電(※日訳、返信も添付)84
中国共産党方正県委員会、方正県人民政府
方正友好交流の会御中:貴国の東北地方宮城県北部にて発生したマグニチュード8.8クラスの大地震によって、大変な数の人々の死傷と財産の損失とをもたらしましたことに、驚きを禁じ得ません。ここに、方正県26万人の県民を代表して、心からのお見舞いを申し上げ、被災されお亡くなりになられた方々に沈痛なる哀悼の意を表します。 /// 続きは本誌ご参照
ハルピン市残留孤児養父母会が東北大地震にカンパ86
石金楷
日本の東北地方を襲った強烈な地震と大津波、そして原発の放射能漏れの事故は中国人民にも深刻な衝撃を与えた。このところ私たちの会でも多くの中国の人民と同じように毎日のニュースを注意深く聞き、日本の友人の救出、放射能漏れの早期コントロール、震災被害者が早く正常な生活に戻られるよう、お祈りしています。 /// 続きは本誌ご参照
ハルビン・方正・大連5日間の旅87
南真会
6月6日(月)関西空港発(NH945) /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2011)88
方正友好交流の会
6月22日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
第4回近現代の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅―ハルピン・方正、引揚の港・葫蘆島と山海関、天津を訪ねる89
社団法人日中科学技術文化センター
1946年当時の葫蘆島は、国民党が支配しており、日本人の引揚げ業務は、国民党の指導によるものでした。近年、中国共産党と台湾の国民党との関係が改善され、その結果06年には葫蘆島で、日本人の引揚げ60周年の記念式典が中国政府の肝いりで開催されました。この因縁ある地と山海関、天津の周恩来記念館などを訪ねます。 /// 続きは本誌ご参照
長春、撫順、旅順を訪ね歴史の深層を見る―長春で生まれ育った遠藤誉先生と長春を旅する90
社団法人日中科学技術文化センター
満洲体験者が減少しつつあり、「満洲」が当時の日本人にどういう意味があったのか、今一度考える時期かと思います。「満洲国」の首都、長春で激しく争った国共内戦を体験した『チャーズ』(封鎖線の意、文春文庫・絶版)や『中国動漫新人類日本のアニメと漫画が中国を動かす』、また近著『ネット大国中国言論をめぐる攻防』(岩波新書)<あとがき>でチャーズの思いなどを記している)などの著者、遠藤誉先生(筑波大学名誉教授、理学博士、ドキュメンタリー作家)の案内で「満洲国」の長春の昔と今を観察します。また、全面開放になった旅順、新装なった撫順戦犯管理所を視察。日本人戦犯を全員釈放した当時の周恩来などの考え方や対応を考察します。 /// 続きは本誌ご参照
日本に残留し定住したある中国人―在日華僑・韓慶愈が生きた「もう一つの昭和史」(第7回)91
大類善啓
《前回までの粗筋》新中国の誕生は、華僑たちの帰国熱を促し、韓も1953年第1回の帰国船に学生代表として中国に行き、天津で廖承志に面会した。その時、廖は韓に中国に帰国せず「日本に残り、華僑向けの新聞を出してほしい」と要請した。日本に戻った韓は、『大地報』という新聞を創刊した。日中関係は徐々に発展、韓は通訳などでも大活躍。1970年には訪中し、新しい中国を見る。文化大革命の時期は、日本にいる華僑とはいえ様々な間題にぶつかった。その混乱のなか、中国にとって必要なのは日本の先進的な科学技術や工業技術ではないかと思い、『日本工業技術』という雑誌の刊行を思いつく。横やりも入ったがなんとか発行にこぎつけた。イデオロギーや思想ではなく、現実を見ていこうという動きがやっと芽生えてきた。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い100
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
書籍案内101
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ーハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児力一郎著)』、『中国残留日本人という経験「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『記憶にであう一中国荒土高原紅棗がみのる村から(大野のり子著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告101
方正友好交流の会
前号の会報11号発行後(2010年12月20日以降)カンパをお寄せいただいた方、また新たに会員になられた方々のお名前を以下に記して感謝の意をお伝えします。 /// 続きは本誌ご参照
 
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