方正友好交流の会
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星火方正
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第11号(2010年12月発行) / 1冊39記事 を表示しています。

  第11号(2010年12月発行) 第11号(2010年12月発行)表紙

天皇皇后両陛下の満洲開拓民への思いについて考える1
大類善啓
長野県は周知のように開拓民として満洲に渡った人たちが日本で一番多く、その数はおよそ3万3千人といわれる。大日向村(現佐久穂町大日向地区)からは、分村移民第1号として満洲に入った。1945年のソ連参戦時には800人近くが入植地にいた。しかし帰国できたのは半数だった。土地や家を処分して満洲に渡った人たちに、親戚も諸手を挙げて歓迎するわけではなく、故郷にいる場所もなかった。そんな経緯もあり、満州から引揚げた人たちは、軽井沢町の浅間山麓に入り開墾し、新たに大日向地区を作ることになった。満洲では中国人や朝鮮人たちが開拓した土地に入植したが、今度は本当に自ら開拓したのだ。その大日向地区を、天皇皇后両陛下は今年(2010年)8月24日ご訪問された。 /// 続きは本誌ご参照
陳毅副総理の永続的な日中友好への願い4
大類善啓
ノモンハン、方正などを旅して8月下旬に帰国後、藤野文晤さんが『日本と中国』(社団法人日中友好協会機関紙9月5日号)に書かれた「忘れ得ぬ人々」を読んで本当に眼を見張った。藤野さんは有数の中国通経済人であり、中国の要人とも深い交流をされている方である。その藤野さんが、「どうしても忘れられない心の恩師ともいうべき人が亀井勝一郎先生だ」という文章の後に、こう書かれている。 /// 続きは本誌ご参照
飯白栄助さんのお話―「私と方正」9
聞き手:奥村正雄(方正友好交流の会参与)、文責:吉川雄作
私は昭和8年生まれですから、当時の東京開拓団の結成されたときは11歳なんですね。小学校5年を終わって行ったわけですけれども、なぜ開拓団に行ったかという詳しいことは残念ながらほとんど知らないんですね。ただ、私の記憶では、当時の教育ですから、満州に行くのは名誉なことと、それこそ勇躍勇んで行ったという気持ちなんですね。 /// 続きは本誌ご参照
農業移民の苦難継ぐ―集団自決・襲撃…荏原郷開拓団25
池田孝昭(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京都内版(2010年10月11日付)
終戦前年の1944年春、商売が行き詰まり、農業移民として旧満州(中国東北部)に渡った山の手の商人がいた。1039人の東京荏原郷開拓団。翌年の夏、ソ連軍や中国人の襲撃や、集団自決で、多くが非業の最期を遂げた。10日、品川区の武蔵小山商店街の一ろうせい角にある朗惺寺で慰霊祭があった。 /// 続きは本誌ご参照
帝都からの満蒙開拓団―転業承認の悲劇25
池田孝昭(朝日新聞)     転載元:朝日新聞東京都内版(2010年10月11~17日付の連載5回)
飯白タツ子さん(84)の父は、品川・戸越銀座で海産物を中心にした乾物商をしていた。結構、繁盛してたんですよ。「ターちゃんは、銘仙(絹)の服ばかり着て、ぜいた<ね」ってご近所から言われたのを覚えてますから。学校が終わった後、よく店を手伝いました。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路1:近くて遠かりし…岩手と方正30
奥村正雄
誘われて映画を親た。『いのちの山河』(大沢豊監督、「日本の青空II」制作委員会)なる近作。岩手県の山あいの寒村・沢内村はかつて豪雪、多病、貧困にあえぎ続けた。新しい村づくりのため帰郷した深沢晟雄は多くの困難を乗り越え、1986年の老人と乳児の医療費無料化で、それまで全国で最悪だった乳児死亡率を、全国初の「死亡率ゼロ」へ導いた。その軌跡を追った映画である。 /// 続きは本誌ご参照
わたしの方正之路2:祖国の土を踏ませたい『嗚呼 満蒙開拓団』にも登場―徐士蘭が3月来日支援の集会にあなたもぜひ!32
奥村正雄
『徐士蘭に祖国の上を踏ませる会』という集まり(千葉市)がある。徐士蘭とは、現在、中国・方正県に暮らす残留孤児で、長年、厚労省に孤児の認定を申請しながら、孤児である物証がないために認められず、帰国できないでいる女性(70歳)だ。目元に愁いを帯びた、品のある顔立ちをご記憶のある方も少なくないはずである。羽田澄子監督の記録映画『嗚呼 満蒙開拓団』で娘たちとともに自分の生い立ちを涙ながらに訴えているシーンが印象的だったからである。彼女が初めて私たちの前に姿を現したのは4年前(2006年)の6月である。その機縁となったのは次のような、ある偶然の出会いからだ。 /// 続きは本誌ご参照
「二つの国の物語」を読む:地は貧しい―希望がひらかれるとき37
森一彦
つい先日2010年10月6日、株式会社理論社が民事再生法の適用を申請とのニュースが流れた。理論社は、児童文学の草分け的な出版社である。創業者の小宮山量平氏は、同社の経営から退かれて久しく、94歳となる現在は上田市にあるエディターズミュージアム(小宮山量平の編集室)を主宰されている。同氏が軍隊生活を終えて理論社を創業したのは、敗戦から2年後の1947年6月であった。その思いは、詩人ノヴァーリスの詩をかかげたことに表れている。 /// 続きは本誌ご参照
良心と責任40
陳野守正     転載元:聖霊(2010年6月1日付)
小谷純一先生は、良心について繰り返し「聖霊」誌に述べてこられた。「神様は、神を信じる者にも信じない者にも、良心を与えておられる」「人間は神から自由意志と良心が与えられている。しかし、神に反逆し神から離反している人間は、自己を神として、自己中心に生きるしかない」 /// 続きは本誌ご参照
草原の涼やかな風が眠る霊を慰めてくれるように―歴史検証の旅に参加して41
下山田誠子
「満州開拓団」のことは長らく心にかかっていたが、今回よい機会を頂いて参加できましたこと感謝いたします。私と妹は当時の新京(現長春)に生まれ、敗戦後、平壌の難民収容所に暮らし、米国の船で佐世保に上陸したとのこと。3歳に満たない私にはほとんど記憶がなく、両親の元気な時に何も聞かなかったことが悔やまれてなりません。 /// 続きは本誌ご参照
母ちゃん、タカシが死んだノモンハンだよ42
千田優子
大正4年生まれの母は82歳で、亡くなった。穏やかな死に顔だった。一番大変な時に育て、一番愛した長男を病院のベッドで待っていた気がして。「母ちゃん、兄貴は忙しくて来れないって。待ってても無駄だよ…。ごめんね」(兄夫婦は山形の鶴岡に住んでいる。母が70の時、松戸で私たち家族と同居を始めた)そう耳元でささやくと、ツーと一滴の涙を流し、1時間後に息をひきとった。騒がせすぎた割りには…何と穏やかで、清しく仏になったことか! /// 続きは本誌ご参照
兄と弟に会う旅44
山田弘子
6月23日から4泊5日の『中国・日本人公墓への旅』に参加した。私の出生地でもあり、兄と弟が埋葬されている場所でもあるハルピン訪間は、かねてからの念願であった。初日は方正県政府を表敬訪問した後、日本人公墓へ向かった。しつかり施錠され、管理人もいるという友好園林の入り口に立った時は、中国政府の手でしっかり守られているという印象を受けた。 /// 続きは本誌ご参照
中国人の寛い心46
堺澤一生
ハイラル伊敏河断橋のほとりにある「望郷」と名付けられた像に胸を打たれました。難民と化した日本婦人がトランクを片手に、幼子の手を引いて日本を目指す姿です。婦人はきれいに髪をなでつけ、衣服もきちんとしており、やつれた様子はなく端正な印象で、制作者の暖かい心が感じられます。 /// 続きは本誌ご参照
方正の中国人夫婦に会う48
上条八郎
今回、私がこのツアーに申込した理由は三つある。一つは、内モンゴル出身で飯田市に嫁いでいる女性から『ノモンハン事件によって、日本が負けたから、モンゴルは中国領、ロシア領、モンゴルの三つに分けられてしまった』と常々聞いていたので、その場所に行ってみたかったこと。そして彼女の郷里は内モンゴルでもフフホトより西のオルドスなので、どこまでも砂漠化してしまったが、ノモンハンの辺りはホロンバイル草原と云って一面草原地帯だと聞いていたこと。 /// 続きは本誌ご参照
意義のある思い出を残したい一亡き夫を偲ぶ鎮魂の旅を迎えて50
杉田春恵
《解説》杉田春恵さんは、1927年生れ。読売新聞に掲載された―「日本人も同じ犠牲者」中国側が建立―という方正日本人公墓記事(「検証の旅」にも参加した徳毛貴文さんが執筆)を読み、大類の方に電話をいただいた。その後何度も会にカンパして下さっている方である。以前、会報に寄稿してくれとお電話をしたことがあったが、「いえいえ、そんなことは…どうぞ少しでもお役に立てれば」という言葉があり、ついぞお会いする機会もなかった。今回旅に参加したいが、からだのことも心配なので、介添え役として孫を連れて行きたいという。孫の啓輔さんは24歳の大学生。終始、杉田春恵さんを支え、その結果、全行程をなんなく支障もなく旅を終えられた。啓輔さんはロシア語を第二外国語として専攻されているが、初めての中国の旅を終えるなか、「中国語も学ぼう」という気持ちになったという。この手紙は、出発する1ヵ月ほど前に行った旅の説明会のあと、大類宛に送ってくださったものである。文章を書くのは苦手だという杉田さんだが、手紙は当時の貴重な体験が綴られている。杉田さんのご了解の下、ここに掲載する。パソコン入力には森一彦さんの手を煩わした。(大類善啓) /// 続きは本誌ご参照
ノモンハン戦争は何の為の戦争だったのでしょうか?―歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅に参加して55
杉田春恵
十年振りにパスポートを取得、孫同伴で初めての中国旅行です。八月十九日北京空港へ降り立ち、想像以上の立派さに、まずびっくり。すったもんだの末に、ようやく出来た成田空港とは比べ様も無い広大な規模でした。この旅は観光ではなく、ノモンハン事変の戦蹟、方正への墓参と、現在の旧満州の戦後の復輿を見届けたい思いからでした。 /// 続きは本誌ご参照
棄民57
山岡紀代子
政府より引揚げ証明届きたり今し六十五歳の我に 長崎に被爆せし夫と満州を彷徨ひし我の八月九日 満州に我と紙一重の運命分け父母探す残留の子ら 牡丹江のいづこの果てにか眠る母恋ひて弟は海を渡れり /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓を参拝する旅59
島田成夫
10月10日からl7日までハルピンと長春に行ってきました。この旅は伊藤州一さんご夫妻に同行し、お墓詣りと伊藤さんが資金を寄贈して改築したハルピンと長春の小学校を訪間する旅です。 /// 続きは本誌ご参照
日本人公墓と731細菌部隊記念館を訪ね、改めて戦争を考える63
高橋修司
1月に、「中国『帰国者』家族とともに歩む練馬の会」(同歩会)主催の映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子監督)を観た。その時、今回、訪問ツアーの世話役をされた「方正友好交流の会」の奥村正雄さんがら背景説明を受けた。中国ハルピン市郊外の方正県に5000人近い死者たちを葬る『日本人公墓』が存在していることを知りツアーに参加した。 /// 続きは本誌ご参照
方正再訪65
吉川雄作(ちば中国帰国者支援交流の会)
6月下旬、2006年以来2度目となる方正訪間の旅に参加した。今回は、担当の奥村氏を含めて6名の小グループで、お互いの距離が近い海外旅行となった。しかし、同行の飯白氏(9頁参照)と私には、長く日本人認定を求めていながら未だ果たせない方正在住の一婦人、徐士蘭への聞き取りとビデオ撮りという“重い目的”があった。 /// 続きは本誌ご参照
Viewpoint:旧満州の日ソ戦跡を巡って―生々しく残る惨劇の跡68
茅原郁生(拓殖大学名誉教授・同海外事情研究所客員教授)     転載元:世界日報(2010年9月15日付)
終戦65周年を迎えた本夏、筆者は日中科学技術文化センターが主宰する「現代史の歴史検証の旅」に参加し、中国のノモンハン、ハイラル、チチハルなど中蒙国境の辺境を回ってきた。そこで見聞した情況にはなお敗戦の疼き惑じさせるものが多く、戦後はまだ終わっていないとの思いを強くした。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハン戦争の跡地を訪ねて―“異郷での虚しい戦争”を痛感69
大類善啓(方正友好交流の会事務局長)     転載元:日中友好協会『日本と中国』(2010年9月25日)
71年前の夏、日本軍とソ連軍は、満州とモンゴルの国境付近で4カ月にわたる死闘を繰り広げた。この戦争は、日本では「ノモンハン事件」として知られている。戦場となったのは、ハルハ河に沿った南北60キ口余りの砂がちの草原で、関東軍の独断専行もあって戦闘を拡大させた日本側は、多数の瀕死の負傷者と屍体を残したまま撤退を余儀なくされた。ことし8月、戦争跡地を訪れた「方正友好交流の会」事務局長の大類善啓さん(65)に、現地で感じたことを寄せてもらった。 /// 続きは本誌ご参照
ノモンハンと方正で国際主義的精神を思う―第3回「近現代史の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」報告記70
大類善啓     転載元:日中科学技術文化センター『きずな』(2010年11月号)
一昨年、「友好の原点を訪ねる旅」を企画したところ大好評だった。昨年に続き今年で3回目の「近現代史の歴史検証と北東アジアの未来を展望する旅」では、8月19日から26日まで、北京からハイラル、ノモンハン、チチハル、大慶、方正を訪ねた。普通のツアーではなかなか行けない地域でもあり、また近年、ノモンハンが脚光を浴びていることもあってか、応募者は「方正友好交流の会」の会員や前回の参加者などを含めて、瞬く間に当初の定員をオーバー、参加をお断りした人も出た。最終的には事務局を含めて総勢35名の訪中団である。 /// 続きは本誌ご参照
先﨑千尋のオピニオン:嗚呼 満蒙開拓団72
先﨑千尋(茨城大学地域総合研究所客員研究員)     転載元:常陽新聞(2010年7月2日付)
「中国では日本人といじめられ、日本へ帰ったら中国人といじめられ、私の国はどこなの?」。5月29日に土浦市民会館で「嗚呼 満蒙開拓団」が上映されたが、終わってから映画の冒頭に登場する池田澄江さんら2人の元残留孤児が舞台から切々と訴えた。 /// 続きは本誌ご参照
560名のお客様を迎えて―黒部市での「嗚呼 満蒙開拓団」上映報告73
鮫沢祐二
黒部市国際文化センターコラーレは1995年(平成7年)11月3日文化の日に富山県黒部市にオープンしました。今年が開館15年目となります。コラーレでは開館当初より黒部市出身で岩波ホール総支配人の高野悦子氏に企画・構成をお願いしている「世界の名画を見る会」という自主事業を継続的に開催し、岩波ホールで上映された世界の名画を北陸のコラーレでも上映し、富山県を中心に隣県の皆様にもお越しいただいている企画です。 /// 続きは本誌ご参照
満蒙開拓団の証言上映―22日 益田の元入植者団体主催75
読売新聞     転載元:読売新聞大阪 島根県版(2010年10月17日付朝刊)
戦前の国策により中国東北部に入植し、終戦前後の混乱で多数の犠牲者を出した「満蒙閉拓団」を取材した映画が22日、益田市の県芸術文化センター「グラントワ」小ホールで上映される。同市美都町から入植、現地で多くの仲間を亡くした「大頂子東仙道開拓団の証を守る会」が主催。「悲惨な過去を知り、平和の尊さを考えて」と呼びかけている。 /// 続きは本誌ご参照
成功裡に終わった『鳴呼 満蒙開拓団』自主上映会―「大頂子東仙道開拓団の証を守る会」が益田市内外に呼びかけて開催76
加藤重幸
前略ごめんください。暫らくは電話による応答で失礼しましたが、このほど計画しました映画会が盛会裏に終了することが出来ましたので、ご報告いたします。当日は気温も20度をこし快睛でした。そのため会場のある市街地外からの出足がよく2時半の上映予定時間より2時間も前から続々来場され、午後の部に300人強が夜の部にも150人を超す観客を迎えることができました。 /// 続きは本誌ご参照
慰霊の夏 語り継ぐ思い:益田市から旧満洲へ82
野中一郎     転載元:朝日新聞島根県版(2010年8月14~16日付の連載3回)
晴れ渡った空、さわやかな大陸の風を受けながら益田市訪中墓参団(加藤重幸団長ら10人)を乗せたバスは1日、中国・黒竜江省の省都ハルビンの市街地を出て走り続けた。東へ約185キロ。目的地の「方正」に近づくと高速道路両側に延々と広がるトウモロコシの畑に交じって、青々とした水田が目立ち始めた。 /// 続きは本誌ご参照
みんなの家主催『嗚呼 満蒙開拓団』上映後の感想85
NPO法人みんなの家
真実です/歴史の一断面が正しく記録された映画だと思いました。/ドキュメンタリー映画、事実ですね。戦後65年、まだ終わっていないと思いました。 /// 続きは本誌ご参照
日中船舶衝突事件から何を学ぶか90
服部健治
9月7日に尖閣諸島(中国では釣魚島)周辺での海上保安庁の巡視船に対する中国漁船の追突事件に端を発した一連の事態は、中国との付き合いを再考させる深刻な衝撃を与えた。短期間で端的にあぶりだされたことは、脆弱な日中関係の本質だ。特に対抗処置として中国政府が打ち出したレアアースの対日輸出差し止めは、対中ビジネスの練り直しを迫るものであった。 /// 続きは本誌ご参照
無神経な「拓魂」碑文と満洲開拓団93
宮下春男
毎年4月第2日曜日には、元満洲開拓団、元満洲義勇隊開拓団、元満蒙開拓義勇軍(隊)訓練中隊、元満洲の農業開拓に何らかの係わりを持った人々、団員や隊員だった人々、その家族や関係者が、全国から東京都多摩市連光寺の“拓魂公苑”に集まってくる。 /// 続きは本誌ご参照
『新潟県満州開拓史』を自費出版して99
高橋健男
人はその人生を全うしたとき、名を刻して弔われる。手厚く葬られて墓所に入り、法要が重ねられる中で、愛する人・親族・関係者の心の中に生き続ける。これが世の常である。しかし、戦争の時代には、おびただしい数の弔うことがかなわない「異常」や「非常」があった。死地さえ分からない。「西太平洋にて」の兵士の死亡公報は、愛する人に死者がどこに眠っているかを伝えることはない。長かるべき生身の“生”を無残に断ち切られ、人間一代の歴史を未完のまま抹殺されたその人の“生”を、詳しく知る術はない。 /// 続きは本誌ご参照
“瀋陽からニイハオ”―日本で『中国人就学生と中国帰国子女』を出版して104
山田陽子
2010年6月に日本で出版しました『中国人就学生と中国帰国子女一中国から渡日した子どもたちの生活実態と言語』という本についてご紹介させていただきます。本書は、ヒトとモノの国際移動によるグローバル化が進展した日本で、どのように生活やことばの支援を行っていけばよいのかを言語教育の具体的な実践例から考えようとしたものです。 /// 続きは本誌ご参照
養父母会ニュース106
石金楷(ハルピン市日本残留孤児養父母の会事務局長)
7月8日、上海テレビ・ニュースチャンネルの要請をうけ、養父母会のスタッフが「昔」番組のインタビューに答えました。当時の人の回想を通して、当時の養父母が曾ての恨みを忘れ、広い心で日本の残留孤児を育てた感動的な話を再現し、崇高な母性愛を讃え罪深い戦争を断罪しました。 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓への旅(2011)108
方正友好交流の会
6月22日(水)新潟空港ロビーに集合 /// 続きは本誌ご参照
方正日本人公墓が私たちに問いかけるもの―「方正友好交流の会」へのお誘い109
方正友好交流の会
1945年の夏、ソ連参戦と続く日本の敗戦は、旧満洲の開拓団の人々を奈落の底に突き落としました。人々は難民、流浪の民と化し、真冬の酷寒にさらされ、飢えと疫病によって多くの人々が方正の地で息絶えました。それから数年後、累々たる白骨の山を見た残留婦人がなんとかして埋葬したいという思いは、県政府から省政府を経て中央へ、そして周恩来総理のもとまでいき、中国政府よって「方正地区日本人公墓」が建立されました。中国ではまだ日本の侵略に対する恨みが衰えていない1963年、中国政府は、中国人民同様わが同胞の死も、日本軍国主義の犠牲者だとして手厚く方正に葬ってくれたのです。日本人開拓民たちのおよそ4500人が祀られているこの公墓は、中国広しといえどもこの方正にあるものだけです。(黒龍江省麻山地区でソ連軍の攻撃に遭い、400数十名が集団自決した麻山事件の被害者たちの公墓も1984年に建立され、この方正の地にあります) /// 続きは本誌ご参照
小説に初登場した方正日本人公墓一佐江衆ー著『昭和質店の客』を読む110
大類善啓
日本経済新聞朝刊最終面の文化欄は、日経の中でも一番読まれていて人気が高い。経済に疎い私などは、読む先から忘却の彼方に行ってしまうので、日経ではここしか眼を通さないロだ。2年前の11月2日の朝、その欄に「満州・中国東北部の子供たち」という見出しで、作家の佐江衆一さんが、<「アカシアの大連」が見たくて初めて出かけた>と、大連、瀋陽、長春、ハルピン、牡丹江を旅したエッセイが出ていた。 /// 続きは本誌ご参照
書籍案内111
方正友好交流の会
『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」―ハルビン市方正県物語(方正友好交流の会編著)』、『約束満州の孤児たちの生命の輝き(増田昭ー著)』、『オリオンの墓一あの冬満洲に消えた難民孤児たちへ(永井瑞江著)』、『満蒙の新しい地平線衛藤瀋吉先生追悼号(満蒙研究プロジェクト編集委員会編)』、『中国残留日本人という経験―「満洲」と日本を問い続けて(蘭信三編)』、『風雪に耐えて咲く寒梅のように二つの祖国の狭間に生きて(可児カ一郎著)』 /// 続きは本誌ご参照
報告/編集後記113
大類善啓
前号の9号で、北京の佐渡京子さんの原稿の中の写真が間違っていた。佐渡さんは趙喜晨さんを中に挟んで向かって左の方である。佐渡さん、ご容赦のほどを。 /// 続きは本誌ご参照
 
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「方正友好交流の会」事務局

〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-6 日本分譲住宅会館4F 一般社団法人日中科学技術文化センター内
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