↑page topHOME会報第4号目次正文
 第4号(2007年5月25日)  
母の死刑を無罪に変えたのは周恩来
崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白

奥村 正雄(当会・参与)  

 松田ちゑさんの息子・崔鳳義さんが自伝を完成させた。中国語でA5版、310ページ。自分でパソコンを打ち、プリントし、製本まで自分の手ひとつで仕上げた、文字通り1冊1冊、手づくりの半生記である。「東京回想録  崔鳳義著 2006年12月 日本東京」 なぜこの本を書いたか、本のタイトルをなぜ「東京回想録」としたか、序言で彼はこう記している。

「私はかねがね、一篇の文章を書き、波乱に富んだ人生の、自分が歩いてきた道を記録し、自分の人生を総括したいと思ってきた。たとえそれが曲折に富んだものであれ、平坦なものであれ、生き生きとしたものであれ、平凡なものであれ、とにかく私はそれを書くことによって、自分の前半生の総括をしたいと思ったのだ…」
 本の題名をどうするかについても迷ったようだ。「追憶の記」としようかとも思ったが、自分は名のある人間ではないので、適当ではない。さらに「生ありし時」とも考えたが、それでは時間が長すぎ、息を引き取るまで書かなければならず、妥当ではない。あれこれ迷った末、「東京回想録」がいいと思った。この文章は私が東京で仕事を失ったあと、暇な時間を利用して、思い出しながら書いたものだからである…と書いている。

 この書きっぷりでも容易に想像できるように、筆者は単に中国残留婦人と中国人との間に生まれた2世であるために嘗めなければならなかった苦難を、そのまま並べ立てたのではなく、母親譲りの文才を駆使して運命との対峙を、時に冷徹に、時に詩情豊かに描いた。
 この本はいずれ日本語に翻訳されるべきものと私は思うが、この本を私が読み進むうち、その時その時の母親と息子の姿と表情が目の前に浮かんで、しばらく本を措けなかったくだりを、ここで2,3紹介したい━━

■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」

      医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 農村に送られた多くの青年たちはやがて大学へ進んだり、小学校の先生になったりした。みんな高校では崔さんより成績の劣った者たちだった。ある時、崔さんは意を決し、方正へ返してほしいという気持ちを1日かけて書いた手紙を県政府に送った。母親がスパイ容疑で捕らえられていることには触れなかった。が、この手紙が県政府の責任者の気持ちを動かした。彼は方正に戻り、県政府の仕事につくことができたのだ。

■ スパイ容疑の母が釈放

 それから更に半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。この日、空は雲ひとつなく、すでに冬の寒さは訪れていたが、しかし暖かい陽光が大地に輝き、人々に春のような暖かさを感じさせた。そのぬくもりは、同時に私の心をも、わが家にも広がった。この日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」

■ 35年後にわかった真相

 更に崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、ほかの誰でもなく、またどの上部組織でもなく、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

■ わが目を疑った地元の検察陣

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

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