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 第4号(2007年5月25日)  

方正―魂の交流の場―  

高良 真木(画家)

 2004年の夏、小泉首相の度重なる靖国神社参拝で、日中関係は国交正常化以来最悪と言われていた。重慶や北京のサッカー試合では、中国の若者が日本チームに激しいブーイングを浴せていた。

 ちょうどその頃、元満蒙開拓団関係者から墓参団の一部始終を綴った手紙を頂いた。(以下要約)

824日、公安の車に先導された6台の四輪駆動車に分乗して、旧開拓地のロータリーへ到着。9年前に植樹した松は15cmほどの幹に育っていた。中国側が好意で造ってくれた「中日友好万古長青」の碑の前で記念写真を撮る。雑木林の中の旧開拓団病院跡地で、日本から持参した酒、水、菓子を供える。母村から同道してきた住職が線香に火をつけ、各自が手向ける。住職が簡単な法衣を羽織って読経をはじめると、林の北側から罵声が聞こえてきた。遠く離れて我々の行動を黙認していた省と県の役人が近寄ってきて、慰霊行事を止めるように指示した。前回植樹に来たときは、県政府の用意してくれた昼食の弁当を一緒に食べ、開拓民も犠牲者だと理解してくれていたのに、小泉首相の言動がこんな山奥まで知れ渡っているとは思わなかった。供え物を全部ビニール袋に入れ、土や木の葉をかけ、涙をふきながら跡地を離れた。

 99日の毎日新聞朝刊は長野県の開拓団遺族らの慰霊式が、中国側の要請で中止されたことを報じた。黒龍江省方正県の日本人公墓で2日行われる予定だったが、中国で高まる反日感情を背景に「国民世論を刺激したくない」中央政府の意向があると見られる、と。

 敗戦間近の1945年夏、根こそぎの召集で男たちを軍隊に取られた開拓地には女、子供、年寄りが残されていた。突然のソ連参戦、日本の消息も定かならぬまゝ、地元の中国人の襲撃に追い立てられるように、向かったのは関東軍の補給基地・方正だった。そこへ辿りつけば食糧もあるし、松花江をさかのぼって日本の船がやってくる、と人々は信じた。だが船は来ず、次第に食糧は底をつき、寒さと疫病で、8000人の難民のうち5000人以上が春を待たず死んでいった。

 『天を恨み、地を呪いましたー中国方正の日本人公墓を守った人々ー』は、その後野ざらしになった遺骨を見つけた残留婦人松田ちゑさんの要請を受けて、1963年、方正県人民政府が日本人公墓を建てたことを記している。

 「日本軍国主義者と日本人民をはっきりと区別しなければならない。ここで死んだ日本人民もまた侵略戦争の犠牲者である。」墓石に彫る碑名の案としてあがってきた「日本侵略中国死亡日本人公墓」は排されて「方正地区日本人公墓」が建立された。公墓を建てたのはかつて日本侵略者に土地を奪われてさすらい、抗日歌曲「松花江のほとり」に、故郷への思いをつのらせた中国人民であり、知らずとはいえ奪った土地に王道楽土を夢見た日本人入植者は、国に見捨てられ、家郷はるか遠く冷たい地の下に眠っている。恨みを友情に転じ、日本人公墓は中日友好の思いを発して止まない。「日中関係の北京が政治、上海が経済の拠点とするなら、方正は魂の交わる場」との言葉は重い。

 開拓団遺族の慰霊の再会が王毅駐日大使から日中友好協会の平山会長に告げられたのは、停止からほぼ一年後だった。

 2006年の暮、青年の友好交流の発展のため、中日友好協会の招請を受けて、神奈川県下45名の高校生が友好省県である遼寧省を訪問した。柳条湖の918記念館を見学した高校生の一人は、そこに展示されている歴史の事実を全く知らなかったことにショックを受けた、と訪中報告に書いている。戦争を知らない若い世代が歴史に出遭い、日中友好の道を歩き出している。

 戦火にきたえぬかれた方正地区日本人公墓の志を、帰国23世はじめ若い世代が引き継いでいくことを、心から喜びたい。

 <高良真木さん:本会の会員。1930年東京に生まれる。1953年コペンハーゲンの第2回世界婦人大会に出席、ソ連・中国を訪問。1966年以後、画業の傍ら日中友好運動に携わる。現在、日中友好神奈川県婦人連絡会会長、神奈川県日中友好協会副会長。1952年に中国入りし、朝鮮戦争後の日中貿易交流再開に貢献された高良とみさんは、真木さんの母堂に当たる方である>

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方正友好交流の会

星 火 方 正

~燎原の火は方正(ほうまさ)から~